―大切な人が亡くなると、どのような感情を抱いて過ごすことになるのでしょうか。今回、ご家族を自死で亡くされた木下宏明さんに、私たち僧侶と葬儀や法事で場をともにするご遺族が、どのような気持ちや事情を抱えておられるかをお話しいただきました。

残された者の感情と僧侶に望むこと

文 : 木下 宏明(「千の風の会」(岐阜県自死遺族の会)代表)

 

木下宏明氏(「千の風の会」代表)
木下宏明(きのした ひろあき):「千の風の会」(岐阜県自死遺族の会)代表、岐阜県自殺総合対策協議会委員。社会福祉士。
♣はじめに

こんにちは。岐阜県自死遺族の会「千の風の会」の代表をしております木下宏明です。会の名にあるように私自身も妻とひとり息子を自死で亡くした自死遺族当事者のひとりです。今回は当事者の立場から自死遺族の心情や心の運びといったもの、そして僧侶の皆さんに期待することなどを私なりに提示してみたいと思います。

 

また、会を始めてから今年でおよそ10年になりますが、その間、様々な自死遺族の方と出会い色々なことを発見したり、学んだりすることができました。そんなご遺族の声を聴くことの中でわかってきたことなどについても触れることができればと思っています。

 

ただ、ご遺族の在り様は本当に様々で、その心情も状況もそれぞれに違います。なかなか一括りで語ることは難しいものがあり、その個別性や多様性を理解しながら問題や課題を見つめることが求められているような気がします。私の問題提起も一当事者の声として参考にしていただければと思います。よろしくお願い致します。

 

♣かなしみを共有できない現実について

まず、私自身の体験から少しお話したいと思います。私の妻は、今から10年余り前、それまでの10年以上の精神的病理との闘いの末にひとり息子との些細ないさかいを契機に自死をしてしまいました。

 

また、ひとり息子もそんな母親を死に追いやってしまったのは自分だとの自責の念に苦しんでいる最中に、その母親の自死を理由にした「イジメ」にあい、その後、不登校に陥った末に失踪、自死という経過をたどり、その人生を終えてしまいました。

 

そして、そんな妻子の自死をめぐって周囲の人たちからは「身勝手な死だ」「現実逃避だ」「弱虫だ」などと、「命を粗末にした愚かな人間」のように言われたり、残された私についても「一番身近にいる家族でありながらその自死が防げなかった人間」として見られ責められたこともありました。

 

その頃から、私の中に、大切な人間を失った喪失感と自責の念等とともに、どこか「うしろめたさ」のようなものが住み着いてしまい、なかなか周りの人たちに自分の悲しみや思いを話すことができなくなっていったように思います。

 

後に遺族会などで他のご遺族の話を聞いてみても、私と同じような状況を抱えている方がたくさんいらっしゃいました。中には自死であることを非公開にしている方もいましたし、日常の買い物でさえ地元を避け、少し離れた地域でされるという方もいました。

 

やはり、自死(自殺)の原因を、個人の性格や忍耐、努力不足などだとする安易な「自己責任論」や、「家の恥」などとする偏見やスティグマ(※)がまだまだ地域に浸透しているような気がします。

 

そんな状況の中で、大切な人を亡くしても「語れない」「悲しみを共有できない」といった悩みを持ったご遺族がたくさんいらっしゃるような気がしています。

 

♣安心して話のできる「人」と「場所」の必要性について

そんな状況の中で、少しずつですが、ご遺族の願いに答えようとする取り組みが生まれてきています。自殺対策基本法が施行されて以来、遺族会なども全国的に取り組まれるようになり、今や全国の都道府県に存在するまでになっていますし、またネット上での遺族の声の発信やコミュニティでの交流なども見受けられるようになってきました。

 

ただ、その中身を少し丁寧に見ていくと、声を出して思いを表出している人は、まだまだほんの一握りの人たちのような気がします。

 

また、先ほど述べたような偏見などの影響なのか、どこか閉鎖性を伴った取り組みが多い様に思います。また、地域での関わりにおいて社会防衛的発想からハイリスクの問題を抱える人間、あるいは家として「監視すべき対象」になってしまうこともあります。そうなるとますます地域で生きづらくなってしまいます。

 

私は、当事者自身による安心できる場所づくりも大切だと思っていますが、もう一方で、もう少し自分たちの生活している身近な所でもご遺族の思いが安心して語れる「人」や「場所」があるといいのではと思っています。

 

そういう意味では、地域のお寺さんや僧侶の方々がご遺族の方へ良心的関心を持って関わってくださるとしたら、とても大きな力になっていくのではと期待しているところです。

 

 

♣僧侶の方々の役割とその可能性について

ある僧侶の方に聞いた話ですが、全国のお寺さんの数はコンビニのそれよりも多いということでした。もし、それらのお寺さんや僧侶の方々が自死遺族の方々の声に真摯に耳を傾け受け止めてくださるとしたら、自死遺族の地域での「生きづらさ」もかなり改善されていくように思います。

 

いつも葬儀や法要などで人間の死と関わり、生と死の問題について日常的に考えていらっしゃる僧侶の方々は、一般の人々と比べて、ご遺族と共に「いのちのかけがえのなさ」を伝えることや「故人の尊厳」を大切に守っていく取り組みを、地域に根差した形で展開できる大きな可能性を持っているように思います。

 

信仰上の問題もあり、なかなか一朝一夕にはいかないことかもしれませんが、それぞれの僧侶の方々が真摯に考えてくださるとこんなうれしいことはありません。

 

一部の方々ですが「いのちに向き合う宗教者の会」の取り組みなど、宗派を超えて「いのち」や「自死」の問題を共有しながら真摯に活動されている僧侶の方々もいらっしゃって私たちもとても心強く思っているところです。そういった動きがひとつひとつ広がっていき、地域が少しでも生きやすく人権が擁護されるような場所になっていくことを心から願っています。

(おしまい)

 

※ スティグマ…他者や社会的集団によって個人に押し付けられた負の表象、烙印、ネガティブな意味でのレッテル


■岐阜自死遺族の会「千の風の会」の活動について

「千の風の会」は2009年1月に岐阜県と自死遺族当事者が協力しながら立ち上げた自死遺族の会です。色々と試行錯誤を続けながら活動を続けていますが主に3つの活動を軸にしながら展開しています。

1つは自死遺族の方が安心してその思いを語り、また他のご遺族の声に耳を傾けながら支え合っていくという「分かち合いの会」を取り組んでいます。

2つ目は遺族同士がざっくばらんに交流できる場をつくろうと「ピアカフェ」と銘打って様々な企画をたてて取り組んでいます。これまでの取り組みで言えば、お茶会をはじめ、料理教室や体操教室、ハイキング、1泊旅行など会の皆さんの要望を聞きながら楽しんでいます。

3つ目の取り組みは、当事者による相談活動です。大変な思いを抱えているご遺族の方の思いや声を個別に少数の当事者がきちんと耳を傾けながら支えていくという活動です。「サポートスペースれんげ草」と名付けて活動しています。

同じような体験をした仲間が支え合いながら、お互いを尊重しながら活動を続けています。気が向いたらぜひ声をかけてみてください。

問合せ先 : 岐阜市鷺山向井2563-18 岐阜県精神保健福祉センター

電  話 : 058-231-9724

 岐阜県公式ホームページ「身近な人の自殺を経験した人に」

■参考

自殺対策基本法(平成十八年法律第八十五号)[厚生労働省HP※PDFが開きます]

いのちに向き合う宗教者の会