蓮如上人御影道中に6年間参加している中学生が、御影道中のことを夏休みの社会科の課題として『蓮如新聞』にまとめました。その新聞は、福井県の「第24回郷土新聞コンクール」にも出品され、「ふるさと賞」を受賞。以下、同新聞の内容をご紹介します。
※掲載にあたり、一部表記を変更いたしております。
『蓮如新聞』
『蓮如新聞』

『蓮如新聞』

福井市 中学2年 南出 治知(ちさと)君

 

無事往復!! 京都~福井間を徒歩で

平成30(2018)年4月17日に東本願寺を出発した蓮如上人御影(ごえい)道中の一行は、4月23日に吉崎東別院(福井県あわら市)に到着。その後5月2日までの10日間、「蓮如上人御忌(ぎょき)法要」がとり行われた後、東本願寺へ向けて吉崎東別院を出発。約280キロの帰路を歩んで、5月9日に東本願寺に到着した。

どんな行事?

蓮如上人御影道中とは、浄土真宗中興(ちゅうこう)の祖・蓮如(1415~1499)の肖像画「御影」を輿車(リヤカーのようなもの)にのせて京都の東本願寺(真宗大谷派本山)から福井県あわら市の吉崎東別院まで僧侶と門徒たちが徒歩で運ぶ宗教行事である。

行き(御下向(ごげこう))は琵琶湖の西側を通るルートで、例年4月17日から7日間かけて吉崎をめざし、蓮如忌という法要を営んだあと5月2日から8日間かけて今度は琵琶湖の東側を通るルートで京都の東本願寺に戻るのが御上洛(ごじょうらく)とよばれる。蓮如上人が吉崎を退去してから200年以上後の江戸時代中期頃、蓮如の遺徳をしのぶ門徒たちが、東本願寺にある御影を借りてきて法要を営むという形で御影道中が始まったといわれている。以来300年以上毎年欠かさず行われ、今年は345回目である。

蓮如上人ってこんな人

蓮如上人とは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が興した本願寺の第8世である。

応仁の乱によって始まった戦国時代は世相も荒廃し、当時の本願寺もさびれていたが、蓮如独特の布教活動によって浄土真宗はその規模を大きくしていった。福井では今でも親近感をもって「蓮如さん」と呼ぶ人も多い。

蓮如と福井・吉崎

次第に勢力を拡大していった浄土真宗であったが、それを阻む比叡山の攻撃を受けて京都を追われ、さらに滋賀県でも弾圧を受け、都から遠く離れた越前(現在の福井県)吉崎に布教の拠点を置いた。

吉崎は越前と加賀の境の北潟湖のほとりに位置し、日本海にも近い水運と防御に適した丘陵地であり、そこに築いた坊舎を中心に積極的な布教を行った。

蓮如が吉崎を退去するまでのわずか4年の間に北陸やその周辺から多くの門徒が参詣(さんけい)し、当時有数の寺内町を形成した。

蓮如が去った後・・・

蓮如は吉崎退去後、大坂(当時は「阪」ではない)の石山本願寺(現在の大阪城の場所)、京都の山科本願寺などを次々と築き、浄土真宗の勢力をさらに拡大していった。吉崎はその後いったん一向一揆に対抗する朝倉軍の攻撃により破壊されてしまうが、吉崎での蓮如の布教により、北陸では今でも浄土真宗の門徒の比率が他地域より高く、真宗王国とも呼ばれている。

なんで4年の間に広まった?

蓮如上人といえば、御文(おふみ)(教義を手紙の形で分かりやすく説いたもの)での布教方法が特徴的である。

門徒(信者)が集まって話し合う場の「講」は村々で結成され、そこで僧侶らが御文を文字の読めない多くの民衆に読み聞かせることによって教えが広まっていった。蓮如は講→寺→本願寺というピラミッド型の組織を作って布教し、勢力を一気に拡大していったのである。

しかし、戦国時代という不安定な情勢の中、蓮如の意に反して次第に過激になっていった門徒衆は一向一揆を各地で起こして織田信長勢と対立し、最終的には多くの流血とともに鎮圧された。

御影道中のようすと参加している人

御影道中は北陸道や北国街道、中山道などの旧街道に沿って、御下向は約240km、御上洛は約280kmを約140箇所の会所(えしょ)(個人宅や寺院などの休憩や食事場所)に立ち寄りながら徒歩で往復する。道中は7~8人の供奉人(ぐぶにん)(責任者)と随行教導(僧侶)1人、そして20名程度の一般参加者によって構成されている。一般参加者のうち数名は供奉人とともに京都~福井間を歩く。他は1日から数日の参加が多い。

各会所では、近所の人々や親類らが教導の法話を聞きに集まってくる。また、道中参加者には、お茶やお菓子などの接待があるので、会所になっている家や寺院ではその準備を含めて、御影道中を迎えるためにかなりの時間と労力が費やされる。

立ち寄る日時は毎年同じだが、細かく決められているので道中の責任者は事故などで遅れが生じないよう細心の注意を払っている。

進明地区にも関わりが?

御影道中は進明校区の旧北陸道(松本通りから進明中近くを通って松本小学校の前を北へ向かい、幾久・高木町方面へ抜ける)もその経路となっており、2箇所の会所もあって、往復の沿道では「蓮如上人様のお通り」のかけ声とともに御影道中が通っていくなじみの光景を目にしたことがある人もいるだろう。

実際に歩いた!蓮如上人御影道中体験記2018

家の前を蓮如上人御影道中が通ることがきっかけで父が数年前から御影道中に数日参加していたので、僕も5年前から一緒に参加するようになった。今年は御下向の6日目と御上洛の2日目から4日目までを歩いた。その時の様子をいくつか紹介する。

御上洛の4日目は午前6時に今庄を出発し、福井と滋賀の県境の栃の木峠を越えて滋賀県の木之本に午後6時半、ほぼ予定通りに到着した。この道のりは約40kmにもなり、この日が一番疲れた。栃の木峠は御影道中の難所でもあるのでかなり大変だった。僕は御下向・御上洛の合計4日間で約100km歩いた中でメガホン係というものもした。メガホン係は「蓮如上人様のお通り~」とメガホンで言い、家の中にいる人たちに蓮如上人の御影が通ることを知らせるのだ。3~4人交互に声を出すが、供奉人の人たちが7~8日間も通してするのはとても大変だ。その負担が減るように毎年手伝わせてもらっているので、なるべく多くの人に知らせるために大きな声を出している。なので会所の人や家の前で出迎えてくれた人たちにたくさん声をかけてもらった。でも3日連続でやっているとさすがに声もかれて、とても厳しい道中になった。そんな中でも7~8日間通しで歩く供奉人の人たちはすごいと思った。

また輿車が通れない湯尾(ゆのお)峠の手前では、輿車から御影が納められている箱を取り出して、参加者が交代で担いで運んだ。峠道は舗装されていないので、転ばないようにとても気を使って歩いた。

会所の人に聞きました

御影道中の会所でもあり、ご自身も道中に参加されている東稱名寺の辻森さんにうかがった話をまとめた。

小さい頃吉崎の蓮如忌によく連れていってもらったので、御影道中のことは知っていたが、嫁ぎ先の寺が会所になっているのは来るまで知らなかった。

迎える側として「お疲れ様」と言っているのが、初めはよく分からなかったが、15年位前から少しずつ歩くようになって道中の大変さがわかった。

大雨の時も歩かなければならないので、自分の会所ではくつ下やタオルなどを用意するなど気くばりをしている。

道中の魅力は何といってもいろんな人との出会いがあるということ。

以前は会所に集まる人も道中の供奉人を希望する人も多かった。(平成30年8月6日取材)

論説 御影道中存続の危機!?打開策は?

道中に関わっている人から直接話を聞くなどする中で、いろんな問題があることがわかった。

高齢化や宗教(お寺)離れなどから、年々御影道中に参加する人数は減っている。また、会所も世代の交代などの諸事情によってやめてしまった所も出ている。ただ、中には引越しなどでそこに住んでいなくても、その時に合わせて家族で戻ってきて御影道中の一行を迎えるというところも数件ある。

会所になっている寺や参加している人などを中心に、御影道中をもっと広く知らせて、継続していこうという議論や努力がなされている。それには、300年以上も続く歴史的行事という側面から、一宗派の宗教行事という枠をこえて、地区・地域の協力のもと大切な文化遺産として今後も守り続けていくというような取り組みも必要ではないかと思う。

感 想

小学校3年生の時に初めて父と御影道中に参加して以来、ほぼ毎年いろいろな区間を歩いてみて500年以上前の人物に関する行事であるにもかかわらず、たくさんの人の協力で毎年欠かさず行われていることが分かった。

お立ち寄り所になっている方に話を聞くことで御影道中の問題点も知ることができた。

― 『蓮如新聞』より ―

※北国新聞2018年4月24日関連記事

https://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20180424101.htm

※福井新聞2018年4月21日関連記事

https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/320786