― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌を発行し、2018(平成30)年9月号で第748号を数えます。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈12〉長覺寺噫慶師
(『すばる』733号、2017年6月号)

「噫慶書院」扁額

「噫慶書院」扁額(長覺寺所蔵)

1、教学を担った堂僧として

近世前期、東本願寺教団の教学を担った人物に(ちょう)(かく)()()(きょう)師(1641~1718)がいます。長覺寺(京都教区山城第1組、京都市下京区)は本山東本願寺からほど近い、近世に代々(どう)(そう)(御堂衆、堂衆)を務めた寺院で、その3代目住持にあたります。

教団の学場である学寮は、寛文5年(1665)に創建されたと伝えられ、延宝6年(1678)になって(しょう)(せい)(えん)枳殻(きこく)(てい))へ講堂が建てられました。この学寮創立当時の指導・教授を、堂僧が担っていました。元禄期(1688~1704)頃からは、噫慶師が渉成園講堂において主導的立場にありました。そこで噫慶師は、元禄15年(1702)に『浄土論註』を、正徳4年(1714)4月中旬に『阿弥陀経』を講じています。そして諸国で教化活動も行い、各地に向学の僧侶を生み出しました。

また、元禄元年(1688)8月に48歳で書いた『九字十字尊号略弁解』や、『浄土論註聞書』『弥陀所帰本仏鈔』といった著述書が伝えられており、そこから、噫慶師による教学の特性を読み取ることができるでしょう。

御坊(別院)の輪番や異安心調理(異端者の取り調べ)も、堂僧の重要な職務であり、噫慶師も務めました。しかし職務の多様化によって、堂僧とは別に教学研究を専門とする学僧が、しだいにあらわれてきました。教団における儀式の執行だけではなく、教学をも中核で担う堂僧の最後に噫慶師は位置づけられます。

2、本山への献身的姿勢

長覺寺には、東本願寺16世一如上人(1649~1700、在職1679~1700)や17世真如上人(1682~1744、在職1700~44)から噫慶師へ宛てた書状が伝わっています。真如上人に対しては、元禄6年(1693)8月に得度した際の剃手役を務め、さらに教団の大切な教学である相伝(そうでん)教学を門跡へ伝える役をも担ったと言われています。このように、歴代門跡との親交の深さがうかがわれます。

噫慶師の時代に、次のような出来事がありました。ある時、本山は洛中の寺院に対して、(まえ)(じょく)()(ほん)(ばしら)といった荘厳類の免許書を持っているか確認しました。そうしたところ、本山からの許可を得ることなく、前卓・四本柱などの設置が進められていました。この時期、許可を必要としないと認識していた洛中坊主衆と、許可制を徹底しようとした本山との齟齬が確認できます。

本山からの指摘を受けた洛中坊主衆は、前卓などをすぐに取り除くべきところ、理由付けをして実行しませんでした。ただしそれに対するお咎めもなく、かえって改めて許可されました。

そうした中で噫慶師は、許可無く前卓を設置したことを反省し、自ら前卓を取り除きました。適切な行動であると本山から評価され、本山の蔵にある前卓が授与されました。噫慶師の行動は、余寺より秀でたる行動であると、本山から称賛されています。堂僧として本山に献身的に尽くした噫慶師の姿勢があらわれたエピソードではないでしょうか。

3、近代における顕彰

このように、近世前期の教学を中心的に担い、本山護持に尽力した堂僧である噫慶師について、今ではあまり知られていません。ただし長覺寺本堂外陣には、東本願寺21世厳如上人の5男である大谷勝縁(1856~1924)によって「噫慶書院」と書かれた扁額が掲げられています【写真】。そして大正13年(1924)7月、前年の立教開宗700年紀念法要を期とし、これまで宗派における功績が顕著な篤学者を調査して、36名が選ばれました。その中に他の堂僧とともに、噫慶師がおり、学問の最上位である「講師」が追贈されました。当該期、教団内において、初期の近世教学を担った堂僧の1人として再評価する機運がみられたようです。

参考文献

松金直美「真宗寺院における建築・荘厳の形成―洛中堂僧寺院を事例としてー」(教学研究所編『教化研究』158号、真宗大谷派宗務所、2016年)

■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)