念仏とは 自己を 発見することである

金子大榮
法語の出典:金子大榮著『歎異抄』

本文著者:福島光哉(大谷大学名誉教授。大垣教区永壽寺前住職)


この標語は、『歎異抄(たんにしょう)』の中に幾度も繰り返し出てくる「念仏」の語について、金子先生が「念仏とは自己を発見することである」と明快に教示してくださった言葉です。

「光と目があるから見えるのだというのは分析的なことであり、事実としては、見ることにおいて、われわれはこちらに目があるということがわかり、向こうには光があることがわかるのです。だから、如来(にょらい)を信ずるならば如来の存在を証明せよということをいいますけれども、そうではありません。念仏の心において、まず明らかになることは自分というものです。念仏とは自己を発見することである――わたくしはそういいたいのであります」(『歎異抄』金子大榮著、徳間書店)。

ここに「分析的なこと」と言われるのは、どういうことでしょうか。それは「事実」をありのままに見ようとする私たちが、かえって「事実」を離れ、歪(ゆが)めてものを見るということになってしまうことです。自己を知るとか、見ることが大変むずかしいことは、誰でも経験することですが、それは私たちが自分を知ろうとする時、それを対象的・分析的に把握しようとするからでしょう。

かつて山口益(すすむ)先生(仏教学者・元大谷大学学長)が「一(いち)の世界」について話されたことを思い出します。ヨーロッパの思想には、人間は自然の中にあってどこまでも自然と対立する人工的・人為的なことを優先すべきだとする考えがある。例えば、イタリアの海に面した美しい自然に対して、際立って高い建造物が自然を睥睨(へいげい)するかのようにそそり立つ絵画など。しかし日本には、古来幼児がやさしく抱く人形を、自分の分身のように、人形と私とを区別することなく、「一」として受け入れる精神がある、ということを強調されておりました。それをふと思い出すのです。人形を、あるいは自然を、自己と対立的に見るのでなく、自然と私とが初めから一つであって、決して別々にあるのではない、自然も自己の投影として捉えるというのでしょうか、そういったことが思われるのです。

金子先生の言葉を、続いて聞いてみましょう。「わたくしにとってきわめて明瞭(めいりょう)なことは、『念仏申す、そこに自己あり』であります。何のむずかしいことをいわなくても手を合わせて念仏するとき、そこに自己があり、そこに自分が見出され、そこに自分の存在の場も見出されるのである。自己を発見する場が念仏であるといっていいのでありましょう。そして、自分を見出したということにおいて、その見出さしめた光として、そこに仏というものが感知されるのです。それが阿弥陀といわれるものであります」。

このように、「念仏申す」ところに私は本当の私自身の姿に目ざめ、自覚をうながされるのです。そして、光として「仏さま」が感得されてくるというのです。ですからそこには分析的に、あるいは対象的に自己や仏を知るのではなく、念仏する場に自己も仏も見えてくるということなのでしょう。

 


東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【表紙】)より

 

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。

 

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