-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈14〉砺波庄太郎
(『すばる』735号、2017年8月号)

砺波庄太郎肖像画(『両堂再建の妙好人 砺波庄太郎』)

砺波庄太郎写真(『両堂再建の妙好人 砺波庄太郎』)

砺波庄太郎肖像画・同写真(砺波詰所・坂東家に各1点所蔵)

 

1、御小屋・詰所での信仰生活

東本願寺は、江戸時代に4度の火災に遭いながらも、全国から駆けつけた数多くの僧侶・門徒らによって、その度に再建されてきました。その際、僧侶・門徒の宿泊所として、出身地別に設けられたのが、御小屋(おこや)詰所(つめしょ)と称された施設です。

 

2度目である文政の焼失ののち、再建事業が本格化していこうとする文政7年(1824)~同9年の間に開設された越中国の東六条詰所では、「心得定(こころえさだめ)」が規定されました。それによると、詰所には内仏が安置され、そこで毎日2度の勤行が行われました。また僧侶が門徒に対して仏法の教えを説き、門徒らは仏法に関する語り合いを毎夜行い、時には仏書を貸借することもありました。このように詰所では、信仰を深め合う生活が営まれました。

 

その後、越中国の僧俗らは郡別で詰所を設けました。砺波郡詰所の2代目主人として知られるのが砺波庄太郎(1834~1903)です。本名を坂東忠兵衛と言いますが、砺波郡(となみぐん)出身であることから、いつの頃からか砺波庄太郎と通称されたようです。安政5年(1858)6月4日に京都大火で焼失した両堂の再建に従事するため、同年9月10日に初めて上京しました。その後、文久元年(1861)3月18日に砺波郡詰所主人となり、安政度再建と明治度再建を経験することとなりました。明治度再建に際しては、「諸国詰合惣代」として、再建事業に従事する人々を統括する立場にありました。御小屋・詰所の伝統をうけ、門徒らを率いて、仏法を聴聞しながら、本山の再建に身を粉にして尽くしたのが庄太郎でした。

 

2、庄太郎の人物像

生前、親類らが肖像画を描かせて欲しいと庄太郎に頼んだところ、「地獄の鬼を描いて俺の姿と思え」と言って笑ったと伝えられています。そして、庄太郎のことをよく知っている画家・中尾玉遷に描いてもらいました【写真上】。その風貌は、背丈が6尺(約1m80㎝)あったと伝える地獄の鬼さながらでもありますが、慈悲に溢れた人柄もにじみ出た様相を伝えています。

 

庄太郎は写真嫌いで、写真は撮影しなかったと言われていましたが、近年、近村にある江田春夫氏宅(富山県砺波市)にて発見されました【写真下】。肖像画に比べると柔和な印象を受けるのではないでしょうか。

 

3、妙好人として語り継がれる

明治36年(1903)6月21日、庄太郎は71歳で没しました。亡くなった富山県で盛大に葬儀が営まれましたが、翌7月9日には、本山にほど近い総会所において、追悼会が執り行われました。その際、参詣者に『砺波庄太郎』という冊子も配布されており、早くもその生涯が書き記されて伝えられたのでした。

 

同年、長く東本願寺の再建作事部長を務めた三那三(みなみ)能宣(のうせん)は、庄太郎こそ「妙好人」であると評しています。

 

明治42年(1909)5月4日、総会所で7回忌が勤められ、「妙好人庄太郎の法要」として、宗門機関誌である『宗報』でも報道されました。その直後である6月には、大須賀秀道編『明治の妙好人 砺波庄太郎』が出版されています。しかし同書や砺波庄太郎の存在は、しだいに忘れ去られてしまいました。

 

平成10年(1998)、偶然に同書が発見され、平成13年に復刻されました。本山参詣者や旅行者の宿泊施設として運営されてきた砺波詰所でしたが、維持委員の高齢化などにより、平成15年(2003)に廃業が決断されました。その後、存続へ向けた運動が、旧・砺波郡の僧侶や門徒を中心に推し進められた際、原動力となったのが、同書で語り継がれた妙好人・砺波庄太郎を生み出した詰所の精神であり、それが現存するとなみ詰所において、今なお受け継がれています。

 

■参考文献

尾田武雄編『両堂再建の妙好人 砺波庄太郎』(となみ詰所、2009年)、松金直美「本山門前の詰所」(『真宗本廟(東本願寺)造営史―本願を受け継ぐ人びと―』真宗大谷派宗務所出版部〈東本願寺出版部〉、2011年)

 
■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)