伝道ということ(楠 信生)

教えが相続されるには、仏法を聴聞し、考え、伝えるということが基本です。この中の伝えるということについてはいろいろな方法があります。文書伝道でいうならば、現代は真宗に限っても書籍からパンフレットのようなものまで、たくさんあります。それにもかかわらず、寺院などの教化の現場では、法話をできる人がいないという言葉をよく耳にします。そして、法話をできる人の育成ということが言われます。

このことは必ずしも新しい問題ではありません。五十年前から類似のことが言われてきました。ただ、五十年前と大きく異なるのは、寺院を取り巻く環境の変化です。それは、現代を生きる人々にとって寺院・僧侶の存在感がなくなっていっているという現実です。そのために、大切なことをわかりやすく話せる人が切望されるのかもしれません。しかし、ことはけっして容易なことではありません。

一九五九(昭和三十四)年、蓬茨(ほうし)祖運先生が「現代布教の意義について」と題して次のように述べておられます。

それで今考えねばならぬ問題は、真宗の教えを知識として受けとり、話す方法としてその技量を磨くということでは、それは果して布教と名づけて良いものかどうか。そこに少なくとも教えを説くということになれば、説く者自身が教えをよく了解し、まず自身がそれに安心をしておるかどうかということが問われる訳である。『教化研究』第二十四号 四頁)

今から六十年余り前の文章ではありますが、時を超えて大切なことを教示してくださっていると思われます。伝道が求められるとき、内には教法の聞思が求められるということです。

また、蓬茨先生は次のことも指摘しておられます。

真宗では昔から、聞法と大ざっぱに云われている。そこに聞法ということが、法を聞くということから法の話を聞くということになってしまっていたのである。(同前 六頁)

話す方も聞く方も、真宗の教えを知識として考えているということです。もちろん、知識として語られたことを自らへの教えとして聞くということも決してないとは言えないでしょうが、話す側の問題としては、見過ごしのできない問題であります。それが仏弟子の姿としていかがなものかということです。

親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」といわれます。聞思の思は、聞いた教えを日々の生活の場で自身と出会う言葉として思念すること、教えに相応した思惟の経験をすることでありましょう。

『正信偈』の最後の四句で「弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪をしたまう。道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし、と」と説かれています。聖人は、ひとえに「恩を知りて徳を報ず」る思いにおいて、呼びかけておられるのです。

法話は、経典に忠実に、そして真髄を具体的に話すことが肝要であります。伝道とは、教えることではなく、教えを伝えることです。教えとの出遇いを通して生まれる伝道への意欲こそ求められているのではないでしょうか。

※蓬茨先生の文章の送り仮名等は現代表記に改めました。

([教研だより(144)]『真宗』2018年7月号より)