宗祖の言葉に学ぶ
かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚(しょうがく)のはなに化生(けしょう)して、大般涅槃(だいはつねはん)のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
(『真宗聖典』五四五頁)

この文は、『一念多念文意』の一文です。善導大師の『法事讃』にある「致使凡夫念即生(ちしぼんぶねんそくしょう)」の文意を確かめるなかで、述べられたものです。ここでは、私たち凡夫は、阿弥陀仏の光明のはたらきに摂め取られ、必ず安楽浄土にいたり、阿弥陀如来と同じ正覚(さとり)の花に生まれて、大般涅槃のさとりをひらく、と言われています。そしてそのことを「むねとなさるべき」と言われるのです。私たち凡夫の往生浄土の受けとめ方を、親鸞聖人が積極的に示されたことがうかがわれます。
 
親鸞聖人は、『法事讃』の文にある「致」について、「いたる」と「むね」という意味で読まれています。それによって、浄土に往生することを特に「安楽浄土にいたる」と表現されていることが注目されます。「いたる」とは、ある時点での状態や動きを表す「生まれる」「死ぬ」等の言葉とは違い、そこに達するまでの道程や歩みが含まれる表現と言えます。なぜなら「いたる」は、必ずそれが成立するためには「はじまり・出発点」があり、その歩みが達することを表す言葉であるからです。
 
その歩みについては、この文の前に凡夫の在り方として確かめられています。そこでは「凡夫というのは、無明・煩悩がわれらの身に満ち満ちており、欲も多く、怒り・腹立ち・そねみ・ねたむ心が多く、絶え間なく起こり、臨終の一念にいたるまで止まりもせず、消えもせず、絶えもしないと、二河白道の譬えの水と火の河によって表されているとおりです」(意訳)と言われます。そのような浅ましい私たち凡夫が、煩悩の水火の河の中間に出現する、本願力の白道を歩み度(わた)るように、本願を信じて、人生の道を一年二年と歩んで往(ゆ)くと言うのです。「浄土にいたる」とは、そのような臨終の一念にいたるまで煩悩のこころが絶えずに消えない私たち凡夫が、そうした人生を生ききって浄土にいたり、阿弥陀如来と同じ大般涅槃のさとりを開く、正にその道程と到達を表す言葉なのです。
 
また親鸞聖人は、その「浄土にいたりて大般涅槃のさとりをひらく」ことを「むね」とすべきと言われます。この『一念多念文意』の一段の中では、何度も「むねとす」と言われているのです。この「むね」とは諸仏の出世本懐を示すとの見解もありますが、それは同時に私たち凡夫が宗(むね)とすべきことが言われているのではないかと思います。宗とは中心とするということですが、私たちは、目前の利益にふりまわされ、その事に一喜一憂し、なかなか「浄土にいたる」ということが日々の生活の中で中心になっていないのではないでしょうか。私たちは、何のために生まれ、そして何処へ向かって生きているのか、そうしたことに思いをいたすことがないのです。親鸞聖人は、そのような私たち凡夫に対して、正に浄土に向かって往くことを宗(むね・中心)とすべきことを言われるのです。
 
私たちの人生に「浄土」という生きる方向が与えられ、その歩みが本願によって支えられるのです。如来の願いに応答し、そのことを宗とする念仏生活を送る日々の一歩一歩の歩み以外に、往生浄土の内実はないのではないでしょうか。
(教学研究所所員・武田未来雄)

[教研だより(112)]『真宗2015年11月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。