宗祖の言葉に学ぶ
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
(『教行信証』後序、『真宗聖典』三九八頁)

建永二(=承元元年、一二〇七)年、法然上人とその門弟らが、専修念仏停止の宣旨によって流罪または死罪に処された、いわゆる「承元の法難」が起こりました。その一人として親鸞聖人は、俗名「藤井善信」を与えられ、越後国へ遠流されました。そして親鸞聖人は自らについて、「しかればすでに僧にあらず俗にあらず」と述べたのです。もはや国家制度上の僧侶でないことを能動的に選び取った意志が「非僧」で示される一方、世俗に埋没して生きるのではない仏弟子としての自覚が「非俗」に込められているのではないでしょうか。(安冨信哉『親鸞と危機意識』文栄堂書店、一九九一年、一八六~七頁、参照)
 
どのような立場に立とうとも「非(あらず)」という否定をもって、自らのあり方を問いただしていこうとする親鸞聖人の姿勢は、後の時代、立場にとらわれず、真宗の教えを聞く人々を生み出していきました。
 
蓮如上人による教化は、信心獲得と報恩謝徳の場として、寄合や講を各地に生み出しました。多くの僧侶や門徒が寄り集まりましたが、僧・俗の区分は緩やかなものでした。
 
江戸時代になり、身分制が確立する中で、僧侶か俗人か、属性を明確にする必要が生じました。しかし身分上は俗人とされつつも、実際には枕勤めなどの儀式執行や教化を担い、社会の中で僧侶と同等の役割を果たした、道場主のような存在も各地に散見されました。親鸞聖人が主体的に「非僧非俗」と宣言された生き方に根ざした真宗の教えは、蓮如上人の『御文』に示される「ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ」(『真宗聖典』七六二頁)という生活の中で、いつとはなしに僧・俗の区分を超えた聞法者のあり方を生み出していくことになりました。
 
また真宗において、教化するのが僧侶で、されるのが門徒と分け難いことは、次の出来事からもうかがわれるのではないでしょうか。河内国大ケ塚村(現・大阪府南河内郡河南町大ケ塚)では、享保十三(一七二八)年、同村の「大ケ塚惣道場」と呼ばれた寺院が無住となったため、村民によって、後住が選び出されました。まず、候補の僧侶二十三、四人を呼び出して法談をさせました。そのうち、法談が優れている二名が選出され、それぞれに讃題を出して、順に法談がなされました。前者は聴衆が涙を浮かべて甘心する法談でしたが、後者は学解が不十分な内容であったため、最終的に前者が後住として推薦され、上寺や領主に届け出て、正式に看坊となりました。このように、門徒らが讃題を提示して、僧侶の法談の優劣を決定したことがあったのです。村民である真宗門徒は、日々の勤行・聞法をとおして、僧侶の力量を判断し得るだけの仏教の教えを身に着けていました。(澤博勝『近世宗教社会論』吉川弘文館、二〇〇八年、二八一~三頁、参照)
 
いつの時代も人々は、ある社会的立場に身を置くことになります。ただしそれに、自らがとらわれてしまう場合もあるのではないでしょうか。真宗教化の現場では、教化をする側、される側という区分を超え、問いを共有・共感しながら、互いに聞くという姿勢で教化に臨むことが願われています。単に僧・俗の峻別を問題にしたのではなく、僧と俗に対する厳しい二重否定を自覚的に示した、親鸞聖人の「非僧非俗」という言葉にあらためて向き合った時、僧侶であり聞法者である私自身の姿勢が問われているように思います。
(教学研究所助手・松金直美)
  

 

求生
「御同朋御同行」

清沢満之(一八六三~一九〇三)は、亡くなる直前に、雑誌『精神界』に「我が信念」と題する文章を書いている。そこでは自分が信ずる如来について、次のように述べている。
 

私の信ずることの出来る如来と云ふのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である。私は何が善だやら、何が悪だやら(中略)何も知り分る能力のない私、(中略)此私をして、虚心平気に、此世界に生死することを得せしむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。(『清沢満之全集』〈以下、『全集』〉第六巻一六二頁)

 
ここには浄土真宗の教えによる救いが、満之をして「此世界に生死することを得しむる」と言わしめている。
 
また、この原稿を執筆する数日前の日記(『当用日記』)には、次のような記述が見える。
 

本日。特に他人の行為の少しくなるものを我に対する大なる圧迫と感じ、的苦悶に堪へず。(『全集』第八巻四五一頁)

 
「今日は、気分が晴れない。他人のちょっとした尊大な行為が、自分に対する多大なる圧迫と感じて、いらいらした気分で苦しい」といった心情が吐露されている。この苦悶は、「我が信念」を執筆する背景にもなっており、この苦悶をとおして、如来の慈悲にふれたのである。この苦悶は、具体的には満之の周りの人間関係のもつれが背景にあると思われるが、同時に満之の生きた時代を反映するのではないかと思われる。
 
満之が生きた時代は、日本社会で初めて本格的に資本主義が成立する時代であった。重工業を中心とする日本の産業革命も進み、都市に労働者が集中する社会構造も生まれてきた。それに伴い、それまでの共同体における社会的連帯、そして様々な規範(倫理等)が崩れ、多くの人達が、精神的苦悶を抱えていた。満之も時代が抱える問題を抜きには考えられない苦悶を抱えていた。
 
満之は「他人の行為」との関わりに苦悶しながら、如来の慈悲にふれていく。そこには他人との個人的感情を超えて、新しく他人との関係を開いていく内容をもっていた。満之は「他力信仰の発得」の中で、「吾人は一切衆生と共に彼の光明中の同朋なることを信するなり」(『全集』第六巻二一二頁)と、他力信仰による人間関係を示している。
 
いつの時代においても、他人との関係、社会との関係を開く倫理が課題となる。「他人の行為」に苦しむ中で、それを縁とする救いの道を歩む満之は、新しい人間関係を開く、「救いによる倫理」(御同朋・御同行)を示しているように思われる。それは時代を超えて、今の私達へのメッセージのように私は感じている。
(教学研究所研究員・名畑直日児)

[教研だより(116)]『真宗2016年3月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。