宗祖の言葉に学ぶ
『涅槃経』に言(のたま)わく、仏に帰依せば、終(つい)にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。
(『教行信証』「化身土巻」・『真宗聖典』三六八頁)

子どもの頃から自坊のお夕事では「正信偈」と同朋奉讃式の和讃が繰り読みされていた。いきおい耳でおぼえ、一緒にお勤めをしていた。喜んでしていたわけでもないが、それでも、「正信偈」を勤める両親の姿や若干言葉がわかる和讃から、何となく〈仏教〉を感じ、子ども心に神妙な思いをしたものであった。
 
特に印象深かったのが「現世利益和讃」である(真宗大谷派勤行集一〇五~一〇七頁、聖典四八八頁)。「他化天の大魔王」「天神地祗」「善鬼神」「悪鬼神」とおどろおどろしい言葉が出てくるので、「念仏のひとをまもる」といくら言われても、夕刻のうす暗い闇の中にいる、見えない鬼に囲まれているようでいつも不安で落ち着かなかった。次の瞬間に何かが出てくるかも知れない! 子ども心に映る漠然とした〈仏教〉は、大切なものと思いつつも、自分を取り囲む世界への恐れ、暗さを感じさせるものであった。
 
数年が経ち、仏教を学ぶようになって、この〈仏教〉は〈浄土真宗〉になった。すると、その暗さの意味が反転した。そのきっかけとなったのが表題の文章である。
 
『教行信証』「化身土巻」末巻は、「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば」(聖典三六八頁)と言われているように、我々の「異執」、すなわち仏教以外の、誤った教えに依り、執着する心の問題に焦点をあてて教誡されており、その最初の引用が表題の文章である。そして、この引文群の最後を締めくくるのが、『論語』の「人いずくんぞ能(よ)く鬼神に事(つか)えんや」(聖典三九八頁)である。つまり、外教に拠り、鬼神に事えようとする人間の問題は、外教や神祗云々の問題でなく、仏に帰依する心の曖昧さに拠ることを明らかにするのが末巻の課題である。
 
この末巻を貫く〈仏以外に帰依せざれ〉そして〈鬼神に事えるな〉という厳命は、子ども心に感じていた自分を取り囲む世界への恐れを、内に転ずる言葉であった。外なる世界への恐れは、一寸先の闇、未来の自分の不明さを象徴するものであったのだろう。それは「迷信の根拠は我愛、我慢のこころであり、我を超越した天や鬼を拝してゐる者は実は我を拝しているのである」(三木清『親鸞』)と言われる通りである。内なる我愛は自己意識に潜在する衝動である。故に自己は「我を拝」し、現在に逡巡し、未来を恐れ、「鬼神」の手助けを求め続ける。外なる世界、未来が暗いのではなく、実は自己そのものこそがいかんともしがたい闇であったのである。
 
宗祖に拠れば、「鬼神」は信心を「おそ」れ、「念仏のひとをまもる」(現世利益和讃・聖典四八八頁)ものであるという。また、「化身土巻」末巻でも仏に従い、世界を守る天の存在が『大集経』の引文を通して確かめられている。これらの教えは、帰依する対象の峻別を見誤り、「余の諸天神」の意味を取り違え、恐れていく我々のあり方を教誡するものであろう。
 
善い神には助けてほしい、悪い神には見逃してほしいというのが私の心である。実はその心が、外なる世界を闇と見ている原因である。しかし、「我を拝」する心を離れ、仏に帰依するとき、世界の意味が変わる。「余の諸天神に帰依せざれ」という言葉は、私にとって、念仏の中に聞こえる、〈何に恐れているのか、お前がお前自身を守ろうと暗い我愛の殻の中に閉じこもっているだけではないのか〉という、宗祖の呼びかけの声となっている。
(教学研究所所員・鶴見晃)

[教研だより(118)]『真宗2016年5月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。