宗祖の言葉に学ぶ
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。

(『歎異抄』、『真宗聖典』六四〇頁)

阿弥陀仏が五劫思惟し発(おこ)された本願をよくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人のためであった──。
 
宗祖の直弟である唯円は、この宗祖の言葉を「聖人のつねのおおせ」として聞き、『歎異抄』後序に書きつけている。たびたび「われら」と語る宗祖が、十方衆生に誓っているはずの本願を「親鸞一人がため」と受けとめている。
 
私は宗祖のように本願を「自己一人のため」と頷けていないのではないか。そのような私は、この言葉をどう聞いていけばよいのか。折にふれて拝読してきた宗祖の言葉であったが、このことが私自身に問いとしてあらわれたのは、ある別の言葉を聞いたときだった。
 
私には身体のコントロールを失う神経難病があり、これまで幾度となく入退院を繰り返してきた。現在は脳の手術によってほぼ回復しているが、幼少期から症状は徐々に進行し、青年期には歩くことも、じっと座っていることもできなくなっていった。発病以後、私の支えとなったのは、その病気の研究をしながら、診察を続けてくれた主治医のK先生だった。
 
入院生活を送っていたある日、若い医師が、K先生を「世界のK先生」と評したのを耳にした。その瞬間、私は微かな違和感を覚えた。確かにK先生はこの病気を研究する第一人者で、神経内科、脳神経外科を通じて世界的に有名である。その意味で「世界の」は的をえた修飾語と言える。しかし、自分ではどうすることもできない病を抱えた患者の私にとって、「世界の」はどこか他人事に聞こえた。そこには、医師としての知識や経験が讃えられていても、たすけられるべき一人としての私の存在が忘れられているように感じられたのである。
 
言うまでもなく、病気が回復するかどうかと本願の意趣は異なる。回復してもしなくても、私自身が思いの中で苦悩しているから、本願が発されているのである。だからこそ、宗祖の言葉は「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と続いている。
 
ただ、この出来事を機に、「親鸞一人がため」と語られる言葉を聞くにつけ、宗祖が自身を、たすけられなければならない存在だと信知していると、強く思われるようになった。と同時に、私自身がそのことを忘れ、自己と関係なく本願のはたらきを知識として捉えていることが、あぶり出されるようになったのである。
 
ではこの言葉をどのように聞けばよいのか。唯円はこの言葉が善導大師の機の深信を語る金言と少しも違わないと示した後、次のように述べている。
 

されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。(『真宗聖典』六四〇頁)

 
「われら」は身の罪悪の深いことも如来の御恩の高いことも知らず迷っている──。唯円はそのことを明らかにする言葉として憶念している。「親鸞一人がため」という言葉に接し、罪悪深重の自覚において、「われら」の地平が開かれると、唯円は聞いたのではないか。
 
「親鸞一人がため」と語る宗祖の言葉と、その言葉を憶念する唯円に導かれて、自己を中心とした善悪観を離れられない「われら」の相を聞いていきたい。
(教学研究所助手・難波教行)

[教研だより(157)]『真宗2019年8月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。