宗祖の言葉に学ぶ
煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

(『高僧和讃』「源信讃」『真宗聖典』四九七~四九八頁))

昨年の夏の終わりころ、たまたま朝早くに目が覚めたので、散歩にでかけた時でした。朝の空気に秋の気配を感じながら、おもむろに近所を歩くうち、近くの川にかかる橋の上でたたずんでいました。
 
その橋の上からの風景は、春には桜が綺麗に咲き誇り、ライトアップもされると、多くの観光客が訪れる観光名所の一つとなっているところです。
 
季節の変化とともに移り変わる橋の上からの景色を思い出しながら、この時期のいつもと変わらない光景を前に、橋の上から川面を眺めていました。
 
その時です。川の流れる方向に向かって、桜の枯れ葉らしきものが勢いよく流れているのに気づき、大変驚いてしまいました。川が流れていることは確かなのですが、枯れ葉の流れる姿を通して、川の流れをはっきりと感じたのです。
 
何の変哲もない日常の出来事ではありますが、私にとっては一つの「事件」でもありました。この驚きを自分なりに振り返りながら、この川の流れを時間の流れに置き換え、普段、自分が感じている時間を思い直してみました。日頃の生活は、仕事やプライベートにおいて、目の前の事象に右往左往しながら過ごす一方、どこか毎日、同じ時間が過ぎており、自分はどこに向かって歩いているのか、何のために生きているのかという、ある種のむなしさが漂っているように感じました。
 
そんな私の思いを超えて、時間は常に流れている。そして私の身は生死する身を生きている。そのことに全く気がつかない自分がいるように思いました。目の前の損得に一喜一憂し、本当に問うべき問題に全く目を向けようとしない自分の姿なのかと考えるうちに、気分も暗くなってきたように思いました。
 
冒頭に掲げた和讃は、親鸞聖人が、源信僧都の『往生要集』の言葉を背景に作られた和讃です。我々の眼は、煩悩の雲霧に覆われているが、阿弥陀仏の大悲は、そのような衆生の煩悩の深さに、倦(う)む(嫌になる)ことなく、わが身を照らしてくださるといった意となります。煩悩の深さを歎くとともに大悲の深さを讃えたものです。
 
安田理深氏は、この「わが身」を宿業の身として、次のように言われています。
 

「宿業というのは個人を責める言葉じゃない」「そりゃどうにもならんもんだという意味です。どうにもならんもんが宿業なんだ。思いの通りに行かんもんが。したがってそこにですね、思いが破れるんです」(「広大無碍の一心──入出二門の源泉──」(『親鸞教学』第五十二号、大谷大学真宗学会、一九八八年)。

 
宿業とは個人を責める言葉ではないとして、反省や自己批判の底にある「思い」が破られることだとされます。その宿業の身に頷くところに大悲無倦の声を聞くということがあるということでしょうか。暗い気分を思い出しながら、反省や自己批判にとどまる自分の姿を改めて知らされたように思いました。
(教学研究所研究員・名畑直日児)

[教研だより(164)]『真宗2020年3月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。