参れると思うて 参れぬお浄土へ 本願力(ほんがんりき)にて往生す

稲垣瑞劔
法語の出典:『法雷句集』

本文著者:藤沢紹子(大阪教区頓隨寺前住職)


この言葉をいただいて、まず思い起こしたのは、『歎異抄』第九章のお言葉です。「いそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」。法語は「参れると思うて参れぬ」、『歎異抄』は「まいりたきこころのそうらわぬ」。両者の表現は違いますが、ありようとしては同じものがあるように感じられます。

往生浄土を果たしたい、それは私たちにとって究極の願いでしょう。けれども我が身の事実はそれとは程遠いありようです。「久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく」です。自分の思い通りになりたい、都合よく生きたい、その思いの中で流転し苦悩しているのです。離れがたい執着、つまり「煩悩の所為(しょい)」です。それゆえ、聞法(もんぽう)し念仏申す。また、ときにわかったように法話をする。それで往生の歩みをさせてもらっているのか? なんら確信はありません。自分の思いの中で、往生浄土をイメージしてみても、それは程遠いことです。「参れると思うて参れぬ」でしょう。

また、同章に「他力の悲願(ひがん)は、かくのごときのわれらがためなりけり」とあります。病める衆生(しゅじょう)あるがゆえに、起こされた本願です。その本願力によって、かくのごときわれらが往生浄土の歩みをいただくのでしょう。

では浄土とはどんな世界なのでしょうか。命終わったあかつきに帰らせてもらう、命の故郷でもありましょう。しかしそれだけでは、往生浄土ははっきりしません。浄土とは何か。鈴木大拙先生はこうおっしゃっています。「浄土は此土(しど)を離れて考えられず、此土も浄土を離れて考えられぬ。此土は絶えず浄土を省みて存立し、浄土はまた不断に此土にはたらきかけることによってその意義をもつ」。浄土は私たちにはたらきかける世界。そして、私たちを底から支える世界。浄土のはたらきが、此土を照らし出して、穢土(えど)だと明らかにする。穢土とは私たちがつくりだしている差別と殺戮の世界。今ほど痛切にそれを感じるときはありません。

浄土は共に生き合える世界。此土の現実はどこまでいっても共に生き合えない。しかし如来はそれを悲しんでくださる。他力の悲願です。その悲願はわれらの命の底に埋もれている願いを呼び起こしてくださる。その願いに呼ばれて、私たちは往生浄土の歩みをいただいていくのでしょう。「本願力にて往生す」です。

呼ばれているにもかかわらず、その願いに背き続けてきたありようが今の私たちのありさまです。その最たるものが原発事故でしょう。何の罪もない生き物たちを、そして私たちを支えてくれる大地を深く傷つけたのです。その痛み怒り、そして悲しみの中で本願の声を聞いていく、その声に促がされてこの穢土のただ中を、浄土をめざして、共に生き合える世界へと歩み通していくことが往生浄土かと思います。

互いに念仏申す声を聞き合いながら、そこから力をいただいて、その歩みを共にできたらと思われることです。

 


東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【3月】)より

 

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。

 

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