全療協運動に終わりはない
<全国ハンセン病療養所入所者協議会会長 大島青松園入所者自治会会長 (もり) 和男(かずお)
はじめに

 全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)は一九五一(昭和二十六)年、国立療養所とは名ばかりの強制隔離施設の中で、基本的人権の尊重を謳った日本国憲法の理念に反する「らい予防法」によって奪われた人権の奪還を目指し、闘いに立ち上がってから六十五年を迎えました。
 血と汗にまみれた長年にわたる闘いは苦闘の連続でしたが、全療協運動は本質的に「人間の尊厳」を回復する闘いであったといっても過言ではありません。また、全療協の組織維持の基本は「統一と団結」であり、頑なに守り続け、人権回復の旗を確固として受け継いできました。
 以来、①らい予防法反対闘争、②管理作業の職員への返還、③病棟、不自由者棟看護の職員への切替、④医師・看護師充員及び医療充実、⑤給与金、日用品費等諸待遇改善、⑥らい予防法廃止運動等、実力行使を伴う熾烈な闘いは間断なく続けられてきましたが、予防法の改廃問題について、組織内部の意見統一に手間どり、紆余曲折を経て、一九九六(平成八)年四月、らい予防法はついに廃止されました。
 

「らい予防法」廃止二十年・ハンセン病国賠訴訟勝訴十五年

 日本のハンセン病政策は通算八十七年、患者を隔離し続け、国民に対し「ハンセン病は怖い、恐ろしい病気である」と医学的に間違った恐怖感を煽ることで騙しつづけてきました。予防法のもとで患者の医療は療養所の中だけで行う(療養所中心主義)としたため、医療まで隔離をしてしまい、適切な医療を受けられないまま、無念の思いで多くの人が亡くなっていきました。最悪の人権侵害であったといえるでしょう。
 予防法廃止にあたって、入所者の一部には「療養所が無くなっては困る。今さら社会の中でどうやって生きていくのだ」と反対する人もいました。入所者には帰ることができる故郷がありませんから、反対した人を責めることはできませんでした。
 法廃止の当時を振返るとやっと普通の人間としての人権が回復し、自由に何処へでも行き、やりたいことが出来るのだという解放感に浸りながら、自由のありがたさを実感していました。一番大きな変化といえることは、療養所が社会に扉を開き、学校関係者、一般市民の園への来訪者が増えたことでしょう。予防法は患者を隔離することによって市民の目にふれない状況を作り、ハンセン病の偏見・差別を助長したとも考えられます。そのため、予防法が無くなっても偏見・差別の問題は生半可なことでは解決しないでしょう。これからも啓発活動は時間をかけ、継続的に行うことしかありません。
 一九九八(平成十)年七月、熊本地裁にハンセン病回復者十三名の原告によってらい予防法国家賠償請求訴訟が提起されました。私を含め、多くの入所者は大変驚きました。そして、二〇〇一(平成十三)年五月に原告勝訴判決が下されましたが、小泉純一郎首相(当時)が控訴を断念し、国として謝罪を行いました。全療協はこの裁判でも、最後の直前まで合意形成に苦慮いたしました。判決一ヵ月前に「統一と団結を図りながら勝訴に向けて最大限努力する」との決議を行い、なんとか面目を維持することが出来ました。
 小泉首相の談話によって、ハンセン病問題対策協議会が設置され、その後、ハンセン病に関する重要な課題はこの協議会において、副大臣を座長に厚生労働省と統一交渉団により、ハンセン病問題の全面解決に向けた協議を定期的に開催することになりました。国賠訴訟勝訴によって、将来構想の推進と療養所の地域解放を可能にするハンセン病問題基本法制定への大きな力となりました。
 

療養所の今

 二〇〇八(平成二十)年六月、時の間に市民九十三万の国会請願署名が集められ、怒涛の勢いをもって「ハンセン病問題基本法」が成立しました。そして翌年四月、同法は施行されました。「らい予防法」による強制隔離の被害回復を基本理念とした基本法こそ、ハンセン病問題の全面解決への門戸を開くものとして期待し、焦点を当て全療協運動を推進してまいりました。
 ハンセン病問題の喫緊の課題は、国家公務員の定員削減の対象施設からハンセン病療養所を除外することでありました。全療協はハンストを含む実力行使も辞さずとの決定のもと、前会長の文字通り、生命をかけた取組みによって、二〇一四(平成二十六)年八月十五日、官邸の承諾のもと、厚生労働省との間で二〇一九(平成三十一)年までは定数を削減せず一名ずつ増員を続け、入所者一人当たりの看護師、介護員の数を一.八人にするという合意に達しました。これは大きな成果でありました。そして今年、二〇一六(平成二十八)年二月三日、ハンセン病対策議員懇談会総会において、厚生労働省より期間業務職員について、処遇の改善と具体的な公募の見直し内容が示され、全療協として諒承いたしました。これをもって、実力行使まで決意し、交渉を行ってきた職員の定員問題は一挙に前進いたしました。
 入所者は減少しつづけ、一六二〇名余りとなっていますが、加齢、体力の減退、合併症の悪化、認知症等により、職員の介護なしには食事、排泄もままならない不自由者が増加傾向にあります。今、毎年一三〇名近い人が亡くなっていきます。国には残された人生を生きていてよかったと思えるような医療及び看護・介護の体制を整備する責務があります。
 

終わりに

 療養所は、入所者の減少、高齢化が著しく、自治会の弱体化、活動力の低下という厳しい状況を迎え、全療協運動は崖っぷちに立たされています。とはいえ、入所者の平均年齢はすでに八十四歳を超え、残された時間が無くなった我々にとって、課題の先送りはゆるされません。職員の定員問題は前進しましたが、①医師及び一部施設における看護師の大幅な欠員、②行政職(二)技能職の不補充など、問題解決を急がなければ私たちの医療や暮らしは決してよくなりません。
 全療協は、国の財政事情にかかわらず、ハンセン病患者の強制隔離絶滅政策による被害回復の施策はすべてに優先されるべきだと一貫して主張してきました。ハンセン病問題は解決に時間を要する将来構想の問題、療養所の永続化の問題など、まだ多くの未解決の問題を抱えております。神美知宏前会長が「刀折れ矢尽きるまでたたかい抜く」と最後の言葉として残しています。私たちは、厳しい状況ではありますが、闘いを続けてまいりたいと決意をしています。ご支援の程よろしくお願いいたします。
 

《ことば》
「おかえり」

 昨年、ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山のシンポジウムで、ワクワク保養ツアーを取材した番組を見た。邑久光明園に福島から保養に来られた人たちに、療養所にお住みの方が「おかえり」と声をかけて出迎えられていたことが印象に残る。
 「おかえり」とは、ここが皆さんの帰ってくるべきところであり、来るのが当然のところだ、そしていつでも来ていいところなんだよっていうことだろう。私自身も保養事業に関わらせてもらっているが、見送るときに「またね」と声かけることはあっても、「おかえり」と出迎えたことがあっただろうか。 あらためて「おかえり、ただいま」と声を掛け合える関係の大切さを感じた。
 らい予防法が廃止されて二十年。熊本地方裁判所での予防法違憲国家賠償訴訟の勝訴判決から十五年が経とうとしている。私の住んでいるところが、ハンセン病回復者の方々が当たり前に「ただいま」と帰ってこられるところになっているか。私たち一人ひとりが「おかえり」と出迎える準備をコツコツとしていかなければならない。
(高岡教区・青井和成)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2016年5月号より