各園における真宗同朋会の歴史 ③
国立療養所多磨全生園
真宗報恩会のこれから

<ハンセン病問題に関する懇談会広報部会・東京教区 旦保 立子>

人が
何かを語るのは
伝えたいことがあるからではなく
伝えきれないことがあるからだ
言葉とは
言葉たり得ないものの
われなのである
だからこそ
語り得ないことで
満たされたときに
人は
言葉との関係を
もっとも
深める
 詩集『見えない涙』「風の電話」抜粋
/若松英輔(亜紀書房)
 
 「未だに思うよ。なんで、ここまでやらなあかんかったんやろか」とFさん。
 全生園真宗報恩会の成り立ちについてのお話を聞かせていただく中、少し語気を強められたこの言葉に、私は息をつまらせました。
 一九〇九(明治四十二)年九月二十八日に全生病院(現多磨全生園)が開院されてから、二〇一七年九月で一〇八年。この一世紀余の歳月は、Fさんのには語り得ないこの言葉に象徴され、社会からしたのは誰なのかと、自問自答いたしました。
 

大谷派の布教と真宗報恩会の歴史

 多磨全生園が全生病院として開院した年の十二月には、真宗大谷派浅草本願寺から派遣された蓮岡法麟氏の布教が始まりました。この時にはすでに、七十二坪ほどの礼拝堂が建てられていました。国からは「絶対隔離政策」への協力要請が、東西本願寺をはじめ各宗教団体に呼びかけられ、それを大前提にした入所者への「慰安教化」の場が開設されていきます。
 多磨全生園では一九一二(明治四十五)年七月、蓮岡氏に代わって本多慧孝氏が布教を開始。同年九月二十五日には真宗大谷派連枝、近角常観、加藤智学、暁烏敏ら各氏によって開院以来の物故者百四十人の慰霊祭が勤修されます。
 そして、同年十一月二十八日、入所者であり、「同病者の求道信仰の相続のため」(長島愛生園前真宗同朋会会長・多田芳輔さんの言葉)に、栗下信策さんが帰敬式を受式され、一九一四(大正三)年十一月、栗下さんを初代会長として全生園の「真宗報恩会」は結成されます。その後、和光堅正氏(大谷派明淨寺)の布教が始まります。
 一九二六(大正十五)年二月、北多摩郡(旧住所表記)最大の木造建築といわれる新礼拝堂(各宗派それぞれの本尊が仕切りをもって、安置されている会堂形式)が落成し、十一月には報恩講を勤修。一九三〇(昭和五)年には暁烏敏氏が講話のために来園されています。
 一九三五(昭和十)年十月、大谷派連枝信正院、浅草別院輪番らによって納骨堂の落成法要が行われます。納骨堂入り口の「倶會一処」の文字は大谷光暢法主(当時)の書です。和光氏の後、布教にあたった成田宣明氏(大谷派金相寺)と田原一恵氏(本願寺派慈光寺)によって、一九三六(昭和十一)年八月二十八日、独自の真宗会館「和光堂」が落成します。この頃から、東京教区駐在教導(当時)の佐々木正氏がお話に来られます。七年間続けられ、その間、教区の二十代の若手僧侶(江口貫正氏、平松正信氏、酒井義一氏)と共に訪問。一九八六(昭和六十一)年より佐々木駐在の後を引き継いで、若手僧侶たちが訪問して、新たな「月例会」を開始します。二階堂行壽氏ら七人も加わり、月例会、新年会、花まつり、報恩講、時にバスレクリエーション(今は高齢化、体の不自由さで実施不可)などの行事が勤められ、今に至っています。
 

「話す側」から「聞く側」へ

 真宗報恩会の歴代会長は、初代栗下信策、二代堀口捨吉、三代河村芳雄、四代古沢繁夫、五代茂田正昭、六代西山光男、七代富士原武治、現在はFさんが窓口をされています。
 こうして全生園での布教、「真宗報恩会」の設立、真宗独自の聞法道場「和光堂」落成までの歴史を一人ひとりの名前を列挙しながら、あらためて、真宗大谷派のそうそうたる教学者が仏法を説いておられたことを知ることとなりました。それと同時に、文頭のような言葉をFさんに語らせる一端を、大谷派が担ってきたのではないかと思いました。
 一九八六年以降、若手僧侶の訪問は「話す側」から「聞く側」に立った交流が続けられてきたのではないかと思います。結婚式への招待、出産の報告、新年会・バスレクリエーションへの家族こぞっての参加など、賑やかな出会いが展開していきました。それが、集われる入所者一人ひとりとの関わりを深めていったとも思えます。
 

言葉とは、言葉たり得ないものの顕われ
 —「出会いの場」から「語れる場」へ

 一九四三(昭和十八)年に、真宗報恩会に所属されている方は四三八人で園では最多でした。二〇〇三年六十九人、二〇〇七年五十七人、二〇一一年四十一人、そして現在二十二人。確実に例会への参加者は減少しています。平均年齢八十四歳、高齢化は当然のこと。そして、それに伴う身体の衰えも自然のことわり。そんな中でも、「あと十年よ!聞いといてもらわないと、ほんまに」と堰を切ったように語られる方がおられます。
 入所と同時に、「葬式だけのため」にどこかの宗教に入ることと、本名を捨てて園名を強いられたその時代から、やっと、「出会いの場」が「語れる場」になってきているのかなと感じます。
 だからこそ、机上の平面的な学びを超えて、「そこに、その人がいる」限り、立体的な出会いを求めていかなければならないのではないかと思います。それが、各園に存在する聞法の場を、活かすことになるのではないかと思います。
 
真宗報恩会帰敬式(1998年秋・和光堂にて)  
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2017年9月号より