当事者を生きるⅡ③

 

シリーズ「当事者を生きるⅡ」では、
ハンセン病問題に取り組んできた大谷派の歴史を振り返り、
課題を共有するため、
ハンセン病問題に関する懇談会委員から報告いたします。

 

一人と一人のつながり

<ハンセン病問題に関する懇談会委員・奥羽教区 本間 義敦>

「行ってみないか」

 奥羽教区で年に一度行っている松丘保養園との交流会に参加してから、今年で十年になろうとしている。初めて訪問した日のことは忘れられない思い出だ。大学を出てお寺に帰ってきた私に、父である住職が「行ってみないか」と声をかけてくれたのがきっかけだった。初めての緊張と、何を話せばいいのか戸惑いがあった。今はあの頃よりも参加する人が少なく、もうお話をうかがうことができなくなった方もたくさんいる。
 何度目かの交流会で、陶芸をやっていますという方に出会った。木村龍一さんだ。「いつでも作品を見に来てください」と声をかけてもらったことを覚えている。
 

木村さんとの出会い

 木村龍一さんは秋田県出身で、農家の長男として生まれた。中学生でハンセン病を発病し松丘保養園に入園された。その日のことは今でも忘れられないという。中学を園の中で学び、その後、園で木工部に入り「大工のこっこ(子ども)」と呼ばれながら、園内の施設を点検したり直したりしたそうだ。やがて社会復帰し、東京の方で仕事に就くが、後遺症で手が腫れるなど病状が悪くなると、そのたびに松丘保養園へ入退院を繰り返された。松丘保養園でしか治療を受けることができなかったからだ。園内のお医者さんであれば、病気のことは言わなくても治療を受けられるが、外の病院では根掘り葉掘り聞かれることになる。このことは、波風を立てたくないという思いと同時に、差別・偏見の社会が厳然とあったことを意味している。木村さんは「整形手術のたびに指が短くなったが、社会人として働ける代償だと思い納得していた」と言うが、いったいどれ程の苦悩・苦労であっただろう。
 その後、結婚を機に秋田県で運転の仕事に就き、二十年近く過ごされる。病気だったことは周囲に隠しながらの生活だったという。その後再入園することになったことに今も納得はしていないが、松丘保養園に戻ってからは生きがいを求めて陶芸を始められた。「後遺症で手に障害を持つ私たちは、食事や生活の中で瀬戸物は欠かせない」と木村さんは語る。持ち手が大きいコップ、下に手が回りやすいお茶碗、底が広く倒れにくい湯のみ、左利き用の急須等、その作品には使う人のことを考えた工夫が施されている。「自分が物作りをしている使命は、使う人が便利に感じたり癒されたりするものを作ることだ」と語ってくれた。今は事情があり作品を作ってはいないが、二〇一八年四月、新たに松丘保養園の中にできた社会交流会館に作品を寄贈し、自宅で摘んだ花を挿しに行くことと、周囲の草取りを、現在は日課にされている。
 

作品展での交流

 二〇一三年、東京で開催された第九回全国交流集会に木村さんがご夫婦で参加された時、私も一緒に東京まで参加者として同行した。その後、松丘保養園で何度かお話する中で、「山陽教区での第十回交流集会に参加したい」と相談された。邑久光明園、長島愛生園に入所されている方と、陶芸を通じた交流がしたいということだった。山陽教区のハンセン懇委員の方々に電話をし、陶芸をされている方との交流をセッティングしてもらった。あとは行くだけとなった時、木村さんは怪我をされ、交流集会への参加自体を断念された。
 入院するほどの怪我が回復し、ご夫婦で光明園と愛生園を訪れた木村さんが青森に帰ってこられてから、その交流の様子をうかがったことがきっかけで、「蓮心寺(自坊)で展示して販売しませんか」と提案をした。その年の四月に起こった熊本の震災への寄付、そしてハンセン病の啓発運動として展示と即売をやろうということになった。作品四点ほどを一ヶ月に一度の入れ替えをして展示し、作品の売り上げは全額熊本に送ることになった。
 作品展示・即売をはじめて半年以上がたった頃、蓮心寺の報恩講期間中に木村さんの個展をする運びとなった。報恩講では大広間を仕切って三日間展示・即売を行った。のべ百人にのぼる人が個展に訪れ、多くの人が作品を手にとっていかれた。盛況に終わった報恩講の個展から数日後、木村さんに誘われ、木村さんご夫婦と私たち家族で寺の近くにあるお店で個展成功の打ち上げをした。お酒を飲みながら、陶芸の話や食べ物の話、普段のことなどおしゃべりをして楽しい時を過ごした。帰りがけに木村さんが言った。「今日は楽しかった。予防法が廃止されて、松丘保養園にもいろいろな人が交流に来てくれるようになった。でもそうやってきても、「おれの家に遊びに来てくれ」ってその人から言われたことがないんだ」。
 木村さんの言葉は重い響きだった。
 思い出したことがある。第十回目の交流会の分科会で長島愛生園の鈴木幹雄さんが、第一回目のハンセン病全国交流会(一九九七年)の時、「京都の東本願寺で出迎えてもらって、最後に手を振って見送ってもらった。いつも外からの人を園で迎えて、見送るのとは逆に、受け入れる側から受け入れられる側になったと感じた」とおっしゃっていたことを思い出した。その場で鈴木さんの話を私も聞いていたし、大事な話だと思っていたが、あらためて自身のあり方が問い直された木村さんの一言だった。
 

一人と一人の交流を
蓮心寺作品展の打ち上げにて
(右端前後が木村夫妻)
 「副住職さん、木村さんの作品を展示しているんだから、お話を聞かせてもらいたい」と、寺で月一回行っている同朋会で、帰りがけに一人のご門徒さんにそう呼び止められた。すぐに木村さんに連絡をすると、快くお話を引き受けてくださった。同朋会では毎年夏に納涼会と称して懇親会をしていたが、今年は木村さんにお話をしてもらい、その後木村さんも一緒に懇親会に参加していただくことになった。交流とは多くの人が出会う場だ。だが大勢対大勢の集まりではないのではないか。それこそ一人のひとと、一人のひとがつながっていき続ける交流が願われている気がする。ハンセン病全国交流会の基本テーマは「ひとり」ということだと教えてもらったことがある。宣言文やテーマを見直してみると、確かにそのことが大事にされて来たことがわかる。木村さんも私も、参加者の一人ひとりとつながるお寺の納涼会になりたいと願っている。

 

《ことば》
ふるさと

 療養所に暮らす人と、「ふるさと」を歌うのは、思い出させてしまうから、歌って良いのだろうかと思っていた。でも最近は、園で行っている福島の保養事業で、「療養所を第二の故郷だと思ってほしい」と語り、保養に来られた家族が「お爺ちゃん、お婆ちゃんと呼んでいいですか?」と聞く姿を見て、皆で「ふるさと」を歌うことが何より嬉しい瞬間になった。
 小さい頃に、大地震で瓦礫の中から這い出して、危機一髪だった思い出を語ってくれる方がいる。里帰りしても、「自分の家には帰れない」と聞いた。話を聞くことしかできないけれど、この時間が好きだ。
 また、花火大会や、子どもたちを集めて野球大会をしたり、精力的に園での活動に尽力されているある入所者は、「療養所が第二の故郷とも思えない」と言われて、少しびっくりしたけれど、たとえ実家に帰れなくても、懐かしいあの場所は、かけがえのない故郷なんだと聞こえた気がする。
 今は嬉しさや悲しさ、いろいろな意味で、「ふるさと」を一緒に歌いたいと思うようになった。
(金沢教区 長井誓子)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年9月号より