当事者を生きるⅡ⑦

 

シリーズ「当事者を生きるⅡ」では、
ハンセン病問題に取り組んできた
大谷派の歴史を振り返り、
課題を共有するため、
ハンセン病問題に関する懇談会委員から報告いたします。

 

ハンセン病家族訴訟とは何か(第二回)
─「隔離」と「保護」─

<ハンセン病問題に関する懇談会 真相究明、ふるさと・家族部会 菱木 政晴>

 

「隔離」と「保護」

 ハンセン病患者や感染を疑われた人びとに対する終生・絶対・強制隔離の政策のせいで、ハンセン病に対する偏見と患者や感染を疑われた人びとに対する差別が生じたことはハンセン病国賠訴訟の熊本判決が疑問の余地なく明らかにしたことですが、それでも、被告である国はさまざまな「反論」をしました。たとえば、「実際にはいわゆる『軽快退所』も存在し、厳密に終生・強制というわけではなかった」というものがあります。「軽快退所」というのは、文字通りには治癒すれば退院するという当たり前のことのように見えますが、隔離を大前提にしている体制の中での園の(隔離を前提にした)運用範囲の調節にすぎませんでした。「隔離を大前提にするぞ」という法律があれば、こうした運用の幅があっても差別・偏見の解消にはなりません。患者やその家族に著しい人権侵害を及ぼした原因は、隔離の内容や態様が残酷なものだったということもありますが、たとえそれが緩やかなものであったとしても、隔離を前提にすることによって患者や家族らが等しく偏見差別を受ける地位に置かれたということにあります。「軽快退所」した人でも病歴を隠して生きざるを得ないのです。ほかの病気でこういうことはあり得ません。周りの人はむしろ再発や転移を心配して接してくれるでしょう。
 また、「国が行った隔離は家族を含む社会からの偏見にさらされて流浪を余儀なくされた患者たちを『保護』する意味があったのだ」というような詭弁がありました。この詭弁は現在でも一部の研究者や評論家の間で一定の賛同を受けているものです。しかし、これも考えてみれば、流浪を余儀なくされたことがあったとしてもその主要な原因は隔離を前提とした政策にあったのですから、おかしな話です。
 真宗大谷派は一九九六年に、終生・絶対・強制隔離政策が病者に「病そのものとは別の苦しみ」を与えてきたことを認識し、その体制に加担してきたことを謝罪する『声明』を出しました。謝罪は、隔離政策の中で教団もまた、病者を遠ざけ見捨ててきたことに対してなされたのではありません。大谷派教団は、療養所に出向き病者の「心のケア」(当時の言葉では「慰安教化」)にむしろ熱心に取り組んできました。謝罪は、この「心のケア」が、あたかも「隔離」を「保護」であるかに見せかける詭弁であり、それが隔離政策を支える力となっていたことに対してなされています。『声明』にはこう書かれています。
  確かに、一部の善意のひとたちによっていわゆる「慰問布教」はなされてきましたが、それらの人たちの善意にもかかわらず、結果として、これらの布教のなかには、隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。このような国家と教団の連動した関わりが、偏見に基づく排除の論理によって「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」をもたらしたのです。私たち真宗大谷派教団と国家に大きな責任があることは明白な歴史の事実なのです。
 この中に「一部の善意のひとたち」という言葉がありますが、私たちはまさに病気で困っている人たちを助ける「善意のひと」「保護者」を気取っていました。それこそが「『病そのものとは別の、もう一つの苦しみ』をもたらしたのです」。国賠訴訟の衝撃は、この自らの「善意」を疑うことを知らなかった罪悪を自覚させ、その後の大谷派のハンセン病問題に取り組む方向を決定させるものでした。これによって、ハンセン病問題に取り組むことがそのまま宗教的課題に取り組む意味を持ちえたのです。
 

家族訴訟から願われていること

 ハンセン病国賠訴訟に続いてようやく提訴にこぎつけた家族訴訟は、けっして患者の「一次的被害」に付随する「二次的被害」に対する賠償を求める訴訟ではありません。むしろこれこそが、終生・絶対・強制隔離という悪魔の体制によって翻弄され、図らずも互いに傷つけ合ってしまった患者・家族・医療従事者・市民が、今度は互いに励まし合い、平和と平等の安楽国に向かう生き方を獲得する本質的な訴訟なのです。
 国賠訴訟熊本判決から十五年以上経過して、その判決や大谷派の『声明』の意義が見失われかねない状況になってきました。国賠訴訟の際には、私たちもそうであったように「善意のひと」がたくさん集まりました。それはそれで力になったことは確かでしょう。しかし、私たちはこの「善意」の持つ罪業性に目覚めて立ち上がったはずです。今こそこの立ち上がりの意味が問われます。
 すべてのみなさまがこのハンセン病家族訴訟の推移に注目し、支援を超えた自らの立ち上がりに参加されることを願います。
 

ハンセン病家族訴訟

 二〇一六年二月十五日に五十九名、三月二十九日に五〇九名が、国に対して家族たちの被害に対する損害賠償と謝罪広告を求めて熊本地方裁判所に提訴。二〇一八年十二月二十一日に第一審の結審を迎えた。裁判で語られた原告(家族)の言葉はハンセン病家族訴訟弁護団のホームページで読むことができます。
https://hansen-kazoku-sosyou.jimdo.com/
 

《ことば》
「自分をいじめる人たちに対してさえ、
つとめて陽気にふるまうしかありませんでした」

 ハンセン病家族訴訟の原告の方から聞いた言葉です。両親がハンセン病だったことを理由に、幼い頃から近所の子どもに石を投げられたり、大人からも嫌な態度で疎まれて、差別の視線を感じて生きてこられました。
 沖縄の小さな島で暮らすこの方は、どこにいても両親の病気のことを知っている人がいるため、親や自分を差別した人に対しても、何もなかったように明るく接する以外に生きる道はなかったといいます。
 生活の中で差別のまなざしを常に向けられ、それでも生きるためにその差別に耐え忍んでいくしかなかったことは、どれほど悔しく、追いつめられた思いであったか。
 私たちは、この深い悲しみから決意をもって立ち上がった原告の叫びを、決して無駄にしてはならないと思います。ハンセン病隔離政策、それに伴う市民の差別意識による家族の被害について、私たちは今こそしっかりと受けとめていかなければなりません。
(解放運動推進本部本部委員 吉田佑樹)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2019年1月号より