当事者を生きるⅡ⑧

 

シリーズ「当事者を生きるⅡ」では、
ハンセン病問題に取り組んできた
大谷派の歴史を振り返り、
現在の課題を共有するため、
ハンセン病家族訴訟弁護団より報告していただきます。

 

れんげ草の会とともに

<ハンセン病家族訴訟弁護団・弁護士 国宗 直子>

 二〇一五年は、今思えば不思議な巡り会わせの年だった。
 ハンセン病遺族・家族の会として二〇〇三年に始まった「れんげ草の会」は、いわば自助グループのような会だった。誰だったか「しの会」という言葉で言い表した会員もいた。
 何よりも「癒し」は必要だった。ハンセン病患者を家族に持った人たちは、長い間世間に隠れて生きなければならなかった。この事実が世間にさらされると様々ないじめや、嫌がらせや、疎外を経験させられた。この事実は隠し通さなければならなかった。秘密を抱えながら孤立して生きてきた。一九九八年に始まったハンセン病国賠訴訟で遺族原告同士として出会った家族たちは、初めて互いの経験を語り合える仲間に出会った。これまで誰にも話したことのない自分の経歴を初めて語り始めた。互いの経験にはいろんな違いがあったけれど、ハンセン病であった父や母から引き離されたハンセン孤児であった彼ら、彼女らの鬱屈した思いは、互いに幾層にも重なり合っていた。
 れんげ草の会は、毎年、国賠訴訟の和解が成立した一月末を記念して、その時期に総会を開く。二〇一五年一月の総会はこれまでと違った。始まる前に、私が会場に到着するなり、会員から「今日は先生に言いたいことがある」と宣言された。
 前年に、退所者の人たちの退所者給与金が遺族のために年金化された。その際の法案の提案理由に「当該退所者の配偶者等が退所者と労苦を共にしてきた特別な事情に鑑み」とあった。一人の会員がみんなを代表して言った。
 「退所者が運動してきてそれが実現したことはとても良かったと思うよ。私たちも退所者の会を応援してきた。でも、労苦を共にしてきたと言われると、私たちの労苦はどうなのよと思うよ。弁護団はこれまで家族のために何をしてくれた、という人までいるよ」。
 ドキンとした。単なる癒しの会というだけでは済みそうになかった。とりあえず、この時の総会では、もっと家族の被害を訴えていこうということと、かねてから出版を計画していた『ハンセン病家族たちの物語』を五月に開かれるハンセン病市民学会までに必ず出版してもらうようにしようということを確認し合った。
 二〇一五年の五月に開かれたハンセン病市民学会には特筆すべきことが三つあった。一つは、『ハンセン病家族たちの物語』(黒坂愛衣著・世織書房)の出版が無事間に合い、家族の被害を初めてまとまった一つの本として参加者に提起できたこと。本を手にした時の家族たちの誇らしい笑顔が忘れられない。二つ目は、ハンセン病市民学会では初めて、家族の被害についての分科会を開くことができたこと。そしてもう一つは、国連でのハンセン病問題の取り組みについて講演があり、国連では家族もまた被害者として常に取り上げられてきたことが語られたこと。家族たちは、自らの被害を整理された形で初めて認識することができたのかもしれない。
 六月二十二日の「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」の追悼式典での遺族代表挨拶は、いつもれんげ草の会の会員が担当してきた。これまでは父や母のことを語ってきたが、この年初めて遺族代表は自らの被害のことを訴えた。そして同じ日に開かれた厚生労働省との定期協議には、初めて遺族原告席が設けられた。遺族原告代表は、『ハンセン病家族たちの物語』を座長である副大臣に贈呈した。協議では統一交渉の統一要求にはなっていなかったが、「国は家族に対しても謝罪してほしい」と意見を述べた。
 同年九月九日、鳥取地裁で非入所者であった母の子どもである男性が提起した裁判について判決が出た。判決は不当にも男性の請求を認めなかったが、それでも判決文の中で、子どもらの受けた被害のことが詳細に語られ、「患者の子らに対してもまた偏見の目が向けられ、差別が行われてきたことも、一般論としては否定することのできない事実である」と述べられ、家族にも被害があることが示された。
 ここで初めて、家族は提訴しなくてもいいのかという議論が始まった。あらためて「れんげ草の会」の会員への聴き取りを始めた。当初は裁判を考えていたわけではない会員も多かったが、次々に提訴を決意した。提訴予定が新聞で報道されると、全国の各地から訴訟に対する問い合わせが相次いだ。予想外だった。長い間隠れていた人たちが、何か機が熟したように動き始めたのだ。
 そうして、二〇一六年、二月と三月に合計五六八人の人が熊本地裁に新しい国賠訴訟を提起し、ハンセン病家族訴訟が始まった。
 二〇一五年に起きたいくつものこと。このどれ一つを欠いても家族訴訟は始まらなかったと思う。「初めて」がいくつも重なった。家族たちは、被害を外に向けて語り始め、謝罪を求め、その動きの先に裁判が見えた。
 れんげ草の会は、この裁判の先頭をゆっくりと歩く。走らない。もうすぐ、れんげの花が咲き乱れる頃、きっと判決が出るだろう。その先をまた一緒に、手を携えて歩いていきたい。
 
※統一交渉団…ハンセン病国賠訴訟和解の後、弁護団・原告を中心に統一した交渉団が組織された。
 

《ことば》
「もう、いいがね」

 ハンセン病家族訴訟の原告のひとりは、認知症の母親が、療養所で会うたびに「もう、いいがね」(もう、ゆるしてくれるよね)と繰り返し謝ると、法廷で述べられました。原告はその謝罪の言葉を聞くたびに悲しくなり、「国の責任」だからと返答し、少しでも母親が楽になるように話をするそうです。母親はその心遣いに対し、差別や偏見が家族や自分に向けられるのは、発病した自分に責任があるとして、謝罪を続けているのですが、家族との絆を大事に生きてこられたからこその行動だと分かりました。
 国の隔離政策は、平穏な家族を引き裂き、その爪痕はゆるしを乞う母親とゆるしを乞われる子の関係をつくりました。被害者が謝罪しなければ壊れてしまうと思わされ、追い詰められた家族関係は、特徴的な家族被害ではないのかと訴えられました。
 「もう、いいがね」と語る背景に、奪われ続けた家族の関係がいかに大きな被害なのかを知りました。
 (解放運動推進本部本部要員 吉田和豊)

 
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2019年2月号より