各園における真宗同朋会の歴史⑧
国立療養所奄美和光園
光仰ぐ日あるべし
 ─名もなき人々によって支えられた歴史─

<ハンセン病問題に関する懇談会第五連絡会・鹿児島教区 福田 恵信>
南の島の国立療養所

 鹿児島市から南に三八〇キロメートル南下した位置に奄美大島があります。一九四三(昭和十八)年、その奄美の山々に囲まれた自然豊かな場所に奄美和光園は開園しました。しかし、開園当初は十五年戦争末期で、医師・看護師・職員の人員不足や、病棟・生活棟は粗末なもので衛生面も悪く、食糧難が続きました。さらにその二年後には空襲が激化し、建物の破壊や火災、機銃弾攻撃により入所者や職員が死傷し、度重なる被害を受けたのです。
 そして一九四六(昭和二十一)年、戦後GHQは北緯三十度線以南を行政分離することを宣言し、奄美群島は沖縄とともにアメリカ軍統治下となりました。直後、「ハンセン病患者強制収容令」の布告が出され療養所は過酷な状況に置かれます。一九四八(昭和二十三)年には、米軍幹部による園内視察の際、逃走防止や逃走監視のために巡査駐在所や鉄柵・有刺鉄線の設置命令が出され、無断外出や無許可帰省した者は所轄警察署に手配され重要犯人のように扱われました。このような状況下で、創立五周年記念式典が行われたのです。
 その後、一九五三(昭和二十八)年には奄美群島が日本復帰し、奄美和光園も厚生省に移管され、本土なみの療養所建設や高水準の医療実現に向けて歩むこととなりました。
 

園内で生まれた子どもたち

 アメリカ軍統治下時代の一九五一(昭和二十六)年、アメリカの宣教師による宗教活動が行われ、パトリック・フィン神父がハンセン病患者への奉仕を生涯の使命として来園されました。カトリックの教えを説くほか、食料や日用雑貨・医薬品などの援助を行い、多くの入所者が洗礼を受けて信者になりました。
 国立十三療養所では「断種・堕胎」が強制される中、奄美和光園では開園以来、手術する医師・看護師・医療・設備体制が十分ではなかったので、一九五〇(昭和二十五)年に治療棟が完成してから、「断種・堕胎」が行われるようになりました。毎日のように園を訪れたパトリック神父は、園内におけるその事実を知ると、「母の胎内に宿れば一人の人間である。殺すことはできない」と入所者や職員に廃止を訴え続け、ようやく出産が可能となったといいます。記録によると五十人近い子どもが誕生しました。
 出産後、一歳から二歳までは看護師が園内施設で、二歳以上の子どもは和光園保育所で育てる体制が整い、時には初代事務長や職員の自宅、隣接する教会で養育していました。後任のゼローム神父は、子どもを育てるハンセン病未感染乳児収容所「こどもの家」を開設し、その後イエズス修道会が乳児院「天使園」として事業を引き継ぎ、一九九五(平成七)年まで多くの子どもを育ててきました。また、一九五九(昭和三十四)年には児童福祉施設「白百合の寮」が完成し、高校卒業までの生活が保障されることとなったのです。
 

小笠原登医師と孤高の画家田中一村

 一九五七(昭和三十二)年九月、第六代馬場省二園長の要請で、国の強制隔離政策に反対した小笠原登医師が奄美和光園医官として着任しました。要請した馬場園長は多摩全生園に異動し、代わって星塚敬愛園の大西基四夫園長が第七代園長になりました。
 大西園長は、小笠原氏が自由に診療できるようにと、施設内の一室を特別診療室として提供しました。そこで小笠原氏はハンセン病治療の他にも研究や論文執筆を行い、自らの官舎を「無真病窟」と名付け、朝夕の勤行は欠かさなかったといいます。また、園内に礼拝施設や宗教施設がなかったので、施設内の一室を借りて御本尊を掛け、入所者や職員を集めて仏教会を行い、時間がある時は寮舎や職員官舎を訪問して仏教や親鸞聖人の教えを伝えていました。
田中一村が描いた入所者の似顔絵  一九五八(昭和三十三)年十二月には、日本画家で自らの再出発を決意する田中一村氏が来島しました。まもなく和光園を訪れ、翌年園内の官舎に住み込むようになり、小笠原氏との共同生活が始まりました。田中氏は、園内を囲む山々に入り奄美の動植物や入所者の似顔絵を描いていました。ある日、自治会室にやってきて、「自分の絵はお金では買えない」と言って、持参していた紙に見事なアダンの実を描き、自治会室にいた役員を驚かせたという話があります。
 また、当時の真宗大谷派宗務総長・宮谷法含名で、奄美群島駐在を命じられた福田恵照氏(筆者の父)は、来島した数年後に生け花を通じて田中氏と出会い、二人は小笠原氏のいる和光園に毎日のように通いました。三人が歓談する場所には、園内出産に大きな役割を果たした初代事務長の松原若安氏や放射線技師長の中村民郎氏が参加することになり、五人の集う一室に入所者も呼びかけて和やかな雰囲気で交流が続けられました。
 

奄美和光園の今後
園内にある納骨堂  一九八三(昭和五十八)年、奄美和光園では地域医療へ貢献し開かれた療養所をめざすため、一般外来診療を開始します。一時休診時期もありましたが、現在は皮膚科のみの診療で毎年六千人を超える方が受診され、二〇一三年からは入院も可能となりました。奄美本島や群島民にとっては、なくてはならない医療機関です。
 国立十三療養所の中で一番規模の小さい奄美和光園は、入所者数二十六人・平均年齢八十五歳です(二〇一七年十二月現在)。高齢化が進む中、国立十三園の中で最初に入所者がゼロになる日が近く、療養所の運営や職員の雇用問題、一般外来診療の継続など、療養所の永続化が緊急の課題としてあります。二〇一五年には、納骨堂や三建造物(解剖霊安室・火葬場・旧納骨堂)の永久保存と社会交流会館(ハンセン病資料館)の設置が決定しました。

 

◆〈お知らせ〉
二〇一八年三月~五月にかけて、菊池恵楓園の絵画クラブ金陽会の作品展が、
奄美文化センター、奄美和光園、田中一村記念美術館を会場に開催されます。
【お問い合わせ】ヒューマンライツふくおか TEL:080─2799─0082
◆里帰り展クラウドファウンディングにご協力ください!
 https://camp-fire.jp/projects/view/52872

 
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年2月号より