如来さま

著者:近田昭夫(東京教区顯真寺前住職)


京都の紫野に大徳寺という寺があります。臨済禅のお寺です。その大徳寺に、室町時代、蓮如さまと仲のよかった一休禅師(いっきゅうぜんじ)という人がいらっしゃいました。頓知(とんち)話で有名な一休さんです。
 
あるとき人が集まって、四方山(よもやま)話をしておりました。「お坊さんは仏さんは仏さん仏さんと言うけれど、仏さんなんかどこにもいないんだよな」と。「あれは坊さんが売りものにして言っているだけの話で、仏さまなんかどこにもおいでではないのさ」と。
 
すると別の人が、「そんなことはない。お経によると、阿弥陀さんは弥陀の浄土(じょうど)・極楽世界にいらっしゃるはずだ。それなら極楽に行って阿弥陀さんが本当においでになるかどうか確かめてみようでないか」と。こういう話をしていた。
 
そこへ、一休さんが入ってきて、「何とたわけたことを話しているのだ。極楽へ行っても阿弥陀さんはお留守やぞ。お浄土へ仏さまを訪ねて行っても、如来さまはおいででないぞ」と。「じゃあ、どこにおいでますか」と訊(き)いたら、「おまえのところへずっとあらわれてきていたはずだが、一度も出会ったことはなかったか」と言われたという。頓知(とんち)話のようですが、実に見事ですね。
 
ですから私どもは、仏さまというと、われわれとは懸(か)け離れた尊いお方というふうにお敬い申しあげるけれども、それは尊敬しているといっても、実は敬遠(けいえん)しているだけなのです。尊敬はしているけれども、遠ざけてしまっている。生きた仏さまのはたらきというか、仏さまのおこころというものが全然わかっていないわけです。ただ敬(けい)して遠ざけているだけの話なのです。
 
実は、仏さまというのは、向こうから私のところへいつも来ているはたらきです。ですから、「如」(真理の世界)より来たるというので「如来」と言うのでしょう。ですから「仏」と言っても、「仏さま」と言っても間違いはないけれども、「如来さま」という言葉が私は好きです。私のところに来たりあらわれて、われらの勘違いを思い知らせてくださっているのだということですね。

 


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2014年版⑦)より

 

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2014年版)をそのまま記載しています。

 

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