小さな声の力を感じて
「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」交流集会部会チーフ(富山教区) 見義 智証

 二〇一九年九月一三日から一四日、富山県を会場に、「真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」を、約四百名の参加者の一人ひとりによって開催させていただきました。
 今回の交流集会では、一九九六年に表明した真宗大谷派の「謝罪声明」が誰に何を謝罪したのかをあらためて確認させられ、そこからの一歩が問われる集会となったように感じます。
 国賠訴訟の時には、原告の側ではなく、被告の側に私たちはいるということを確認しながら裁判に臨んだと聞いています。この姿勢は二十三年間確認し続けてこられたことでもあり、回復者の方々やそのご家族が大谷派に一定の信頼を置いてくださる根拠にもなってきたことだと今回あらためて感じました。

 

黒坂愛衣氏による基調講演
黒坂愛衣氏による基調講演

 さらに、今回の交流集会の基調講演で、黒坂愛衣氏より「裁判の話なので国の責任を話してきましたが、差別と排除をしてきたのは私たち市民の側だということを厳粛に受け止めなくてはいけません」(要旨)と押さえてくださった心を立脚地として、ご家族の方々と共に裁判を闘ってこられたことを知らされました。外から見ると一緒に国を訴えているような姿ですが、その実は、国を問うと同時に市民である私が問われているというものが家族訴訟でした。
 このことから今回の交流集会が、社会の問題が自らの課題であったと気づかされ、そこから関わり続けてこられた人が集まり、場となっていったということをあらためて感じさせられます。課題を抱えた人が集うところが場となり、そこから課題に気付かされた人が生まれていく。場がつくられることも、人が生み出されていくことも、私に先立って課題を抱えた人の歩みと歴史が土台にあるのだと知らされました。その原動力は、声を聞く、声が聞こえてきたということだろうと思います。
 交流集会の中で聞こえてきた声は、差別を受けている方々が声を出しやすい状況になったから出てきたということではありませんでした。現実の社会は今なお、差別の対象とされてきた方々、被害に遭われてきた方々が声を上げるということが難しい現状です。そういう状況の中で振り絞るように語っていただいた声でした。その声は社会全体からいえば小さな声なのかもしれませんが、とても力強い声でした。社会を変えていく力を持った声でした。その声にしっかりと耳を傾けていく。声を上げた人を孤立させない。そういう姿勢が、ハンセン病家族であることを・隠す必要がない・地域社会、ハンセン病という事実があっても、そのことが差別とならない社会をどのようにつくっていけるか、という課題に応える私の生き方になると思います。そしてその生き方を伝えていく役割があります。人類始まって以来の通過点の中で、しっかりと課題を受け取り、次に伝えていく生き方を、この声を聞く姿勢から教えられ続けていきたいと思います。
 富山・高岡の皆さんにおいては、これまでの準備と当日の運営において多くのご苦労とご協力をいただきました。交流集会への参加・不参加を問わず、ここから一人ひとりが歩み出し、一緒に差別のない世の中を願いつつ、この現実を共に歩んでいきたいと思います。

 

第11回交流集会宣言

 富山宣言

 

 「第11回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」は「富山から考えるハンセン病問題~病そのものとは別の苦しみ~」というテーマのもとに約400名の参加者を得て、ここ富山県を会場に開催されました。
 今回は、国のハンセン病隔離政策によってハンセン病回復者だけではなく、その家族にまで人生被害を及ぼした責任を認める画期的な判決が出された中での開催となりました。
 6月28日の熊本地裁での勝訴判決、7月9日の国の控訴断念が発表され、12日には勝訴判決が確定しました。その後内閣総理大臣と厚生労働大臣、文部科学大臣が原告と面談し直接謝罪するという大きな動きがありました。
 1996年のらい予防法廃止から23年、元患者らのらい予防法違憲国家賠償請求訴訟勝訴の判決から18年が経過し、そして今回の判決となりましたが、ハンセン病問題の解決が、未だ道半ばであることは明白な事実です。これまで10回開催された「全国交流集会」で提起されてきた課題に立ち帰って、ここから何ができるのかを一人ひとりが考え、動きださなければなりません。そのためにも、長年にわたって封印してきたハンセン病家族としての自己の体験に向き合い、それを言葉にし、陳述書の作成や法廷での原告本人尋問に臨まれた家族の方々の訴えを共有していくことが大切だと、今回の交流集会を通して知らされました。
 ここ富山県での開催は、第7回の高山開催以来となる療養所のない地域での開催となりました。そのため、今回の交流集会を開催するにあたって、富山で行う意味を確認する必要がありました。地元に療養所があるか、ないかということを超えて、目の前の一人の人に出あうということを大切にしてきた歴史がこの交流集会です。しかも、それは「寄り添う」・「共に」と言う前に、「謝罪する」ということから始まった動きです。このことは富山で生活しながら、目の前にある「イタイイタイ病」の事実が訴え続けてきた課題に向き合わずに通り過ぎて行った私の姿を教えてくれました。そこにはどのような問題があり、その目の前の一人の人に出あってきたのかが、今回の交流集会と事前研修会を通して、「イタイイタイ病」という公害病被害とその被害に対する回復への取り組みの歴史に触れることで、改めて課題となりました。
 イタイイタイ病が公害病と認定され51年が経過しています。2019年3月末時点の公害健康被害補償法の現存被認定者数は4人(9月13日時点3人)(認定された者の総数200人)です。また富山県は将来イタイイタイ病に発展する可能性を否定できない者を要観察者として経過を観察することとしていますが、2019年3月末時点で要観察者は1人となっています。これは「患者救済」「汚染田復元」「公害防止協定に基づく発生源対策」が、半世紀以上を経過してもなお「終わった問題」、「区切りをつける問題」ではなく、引き続き関わり続ける課題となっていることを示しています。「通過点」という言葉に、亡くなっていかれたかけがえのない命に対して、もう二度と繰り返さないという姿勢を感じます。公害病被害県としての取り組みは行政と原因企業、そして被害団体との緊張感のある信頼関係の中、引き続き救済への道を歩んでいます。
 一方、宗教者は、ハンセン病と同様に「業病」という言葉で、人生をあきらめさせ、人間としての尊厳を奪ってきた責任に対しては未だ応えていないというほかありません。このことに応える歩みを始める立脚地を、ハンセン病問題とイタイイタイ病の現状から教えられました。私たちが世間の「当たり前」や「普通」に立って、そうではない存在を「異質」としていく生き方。その生き方がハンセン病問題でいえば、ハンセン病の発病者の医療のためではなく、非発病者の「安全」のために、発病者の隔離を目的とした法律を生み出し、そのあと押しをしてしまったのです。他者を排除することで自身の安全を確保する生き方が、いかに多くの人の尊厳と人生を奪ってきたのかを知らされました。患者本人もその家族親族も、病そのものの苦しみだけでも想像を絶しますが、それとは別の苦しみをも与えてきたのです。回復者とその家族が関係を取り戻してゆくには何が必要なのか。ハンセン病家族であることを・隠す必要がない・地域社会をどのようにつくっていけるか、という課題に応え続けたいと思います。
 1996年に真宗大谷派から出された「謝罪声明」の中には、「「教え=ことば」が常に人間回復・解放の力と成り得るような生きた教えの構築と教化を宗門の課題として取り組んでいくことをここに誓うものです。」とあります。それは宗祖親鸞聖人の教えのことばが、あきらめと隔離・分断を生むことばではなく、人間を尊敬することによって自らを解放せんとする運動であり、それは目の前の一人の人と出あい続けていくということです。
 この「謝罪声明」の「ことば」と今回の交流集会での「出会い」と「ことば」から、もう二度と同じ過ちを繰り返さないための私から始まる歩みを進めていくことを、ここに宣言します。
2019年9月14日
第11回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会参加者一同

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2019年11月号より