確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる

宮戸道雄
法語の出典:『仏に遇うということ』

本文著者:照井順子(奥羽教区光照寺住職)


 関東地方の、とある小学校でのこと。
 
 全校集会のたびごと、校長先生が生徒に向かって大きな声で呼びかける。「自分のいのちは!」――。すると、生徒は声を揃えてこう応ずる。「自分で守る!」。「その通り! よくできました」。校長先生は満面の笑みで、さらに言葉を重ねて言うのだ。「みなさん! いいですか! 自分のいのちなんですよ。自分で守らなければなりませんね! しっかりがんばりましょう!」。
 
 この言葉を、その小学校に勤務する教員から聞き、私は愕然とした。
 
 まことしやかに壇上から呼びかける校長先生。そして、教えられるままに「自分のいのちは、自分で守る」と反復する子どもたちの姿が目に浮かぶ。私は懼(おそ)れた。子どもたちは、この言葉をどのように受けとめているのか。
 
 自分で自分の身を守れ、と教えることは当たり前のこと、と人は言う。それに、と言葉を続ける。子どものことだもの、ちゃんとわかって言っているのかどうかは、不明だ。今は覚えていてもじきに忘れてしまうだろう。たかが言葉。大したことじゃない。
 
 しかし、と私は思う。その「言葉」が、人間を構築する。言葉によって、人は人となっていくのだ。「まことの言葉」に出遇うことなしに、人が人として生きることは成り立たない。
 
 「いのちみな生きらるべし」と言う。そのように、生きるという事実と切り離して、私のからだのどこかに、いのちと呼ばれるものが存在するわけではないのだろう。いのちを我がものと思い込み、力の限り握りしめるとき、いのちは孤立する。孤立したいのちは、生きられない。
 
 浄土の住人はなぜここに生まれてきたかを知っている、と聞いた。私はなぜここに生まれてきたかを知らない。それを知っているなら、頼むから私に教えてくれ。なぜ教えてくれないんだ。知りたいのなら浄土の住人になれということか。これは絶対にわかるはずがない。そのときふと思った。知ったならば、私は喜んで生きていけるのか、と。
 
 どこまでいっても自分の思いでしか生きていない私を、確かに生きろと支える言葉がある。それは同時に、悲しいこの人生を、喜んで生きていく力をくれる言葉に違いない。
 
 「確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる」――。まさに、「いのちの限りこの生を生き続けていく。その、生きることを支える力こそが、念仏なのだ」と、この法語は教えてくれる。しかも、その歩む一足一足の確かさは、私のはからいにはない。念仏にいのちを託して生きるとき、本当に確かな生き方が、私に恵まれる。生きていくことがちゃんと意味を持ってくる。それがすなわち「確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる」ということなのだと、私は思う。
 
 今、ここに、このようにして生きているという事実そのままを生きよ、そう私に呼び返してくれるいのちが念仏なのだ、と親鸞聖人は教えてくださる。生きる、それ以外に生きることの意味はない、と、聖人の野太い声が聞こえてくるような気がする。

 


東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【8月】)より

 

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。

 

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