浄土はいかなる世界か

著者:池田勇諦(同朋大学名誉教授)


 親鸞聖人は、『教行信証』のなかで、真実の浄土( 真仏土(しんぶつど))について、「謹んで真仏土を案ずれば、… 大悲の誓願に酬報(しゅうほう)するがゆえに、真の報仏土(ほうぶつど)と曰うなり」と書いておられます。つまり、真実の浄土とは、阿弥陀如来の本願の報いとしてあらわれた「報土」である。浄土とは私たちを離れてどこかに想い描かれるような世界ではなく、私たちの上に本願が真実信心として実ることを目的として現れた世界だということでしょう。
 
 ですからそれは、私たちが仏さまの教えをいただいて、「本願を信じ念仏をもうす」身となることがなければ知ることのできない世界ですし、そのことを抜きにして浄土といっても、私たちとは無縁なものといわざるをえないのでしょう。
 
 私たちの思慮・分別からは、浄土というものを、ここではないどこかよそにある場所のように実体化し、対象化して、「どこにあるのだろうか」「本当にあるのだろうか」という形でしか考えられない。だから自分自身のめざめ、信心に結びつかないのです。自分自身のあり方はわかっているつもりで不問に付したまま、浄土だけを問題にしていく。「浄土はいかなる世界か」という本質をたずねることもなく、ただ有るか無いか、この世かあの世かだけを問題にしているようなありさまです。
 
 そうした私たちの思慮・分別が根底から問い返されることをとおして、阿弥陀如来の本願の心にめざめるほかに明らかになるすべのない浄土。それが親鸞聖人の願われた浄土だったのです。
(中略)
 経典のなかで、浄土はしばしば「国土」という言葉で表わされます。その場合、なぜ国土という言葉で表現されるのかが見すえられねばならないでしょう。
 
 国土の「土」とは、そこで人間が生きていくことが成り立つような場所です。それゆえ本願は、生きるべき国土を失った私たちに「真の国土」となろうという願心の表現なのです。つまり居場所を喪失した私たちに「真の居場所」となろうという仏さまの願いがかたちとなって現れているのが浄土です。
 
 阿弥陀如来は「光明無量・寿命無量」の仏さまです。ですから阿弥陀仏の本願は、「大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」と和讃にも詠(うた)われるように、「いつでも」「どこでも」私たちを照らし、寄り添ってくださっている。そして、その「どこでも」というのは「ここ」に極まり、「いつでも」というのは「いま」を離れないのです。
 
 私たちは、浄土へ往生するというと、「いつか」「どこか」いいところへ行けると考えがちです。しかし浄土が私たち自身のこととして明らかになってくると、「いつか」「どこか」ではなく、「いま」がいちばんいい時であり、「ここ」がいちばん大事なところであることが見えてきます。こうした真実の「いま」「ここ」が見えてくるということこそ、浄土が真実信心として、私たちの真の居場所となってはたらくという事実を示しているのでありましょう。
 
 この「いま」「ここ」の見開きに立つことがなければ浄土はどこにもなく、この見開きに立つかぎり、浄土はいつでも、どこでも、誰の上にも到来している国土なのです。

 


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2014年版⑫)より

 

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2014年版)をそのまま記載しています。

 

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