「闇と光の入れ替わり」
(武田 未来雄 教学研究所所員)

 

どうして、闇は部屋に千年もの間、自分はここに居たんだから去らない、と言えるのだろうか。(『真宗聖典』二七四頁取意)

 
これは『浄土論註』で述べられている「千歳の闇室」と呼ばれる譬喩の言葉である。この喩えは、なぜたった十念の念仏によって、多劫の罪と言われる五逆十悪が救われるのかを示したものである。たとえ千年の間、闇室であっても、光が射せば、そこはもう闇でなくなる。どれほど重い罪であろうとも、念仏によって救われることを、そのような光と闇の関係によって表すのである。
 
曇鸞は、その光と闇について、闇を擬人化し、巧みな言葉によって表現している。闇は、千年の間、部屋の主としてそこに君臨しようとも、一射しの光明によって、その場を奪われ、そこから立ち去らなければならない。この譬喩は、そのような主体と客体の入れ替わり、すなわち主客の転換を表しているのではないだろうか。
 
主客転換とは、例えば、通常、神や仏に祈る者は、その祈る自分については疑いもなく、救いや利益を求めているだろう。しかし、真宗における信心は、二種深信で「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」(『真宗聖典』二一五頁)と言われるように、信じる主体が問われてくるのである。そのような対象であるところの仏から、逆に自分自身の在り方が問われることが、主客転換なのである。
 
だから、「千歳の闇室」における闇と光の入れ替わりは、まるで念仏の教えに出遇う自分という主体が問われてくるような在り方を、表していると考えられる。すなわちこの闇とは自分のことであり、その闇の千年の君臨とは、ずっと今まで「これが俺だ」と思っていた自分自身への執着である。
 
日ごろ、自分には「自己とはこうだ」と決め付けていることがある。例えば人の役に立つ自分であるとか、能力があるとか、性格であるとか、評価によって自分というもののイメージを創りあげている。そうした疑いもなく信じていた自分が、「我がままな自分」であったとか、「煩悩によって振りまわされている自分」など、教えによって鋭く問われるのである。日ごろの自分とは全く違う視点から自分というものが問いなおされる。
 
それはまるで「千歳の闇室」のように、光りによって、支配していた闇がはれ、今まで見えていなかった自分が顕現することではないだろうか。思い描いていた主の自分が、教えによって迷いの自分として照らし出される。それと同時に、迷いを救おうと仏から願われている自分が明らかになるのである。その願いを通して、自分は常に呼びかけられ、浄土を願う自分となるのである。すなわちわが身を支配していた主が自我の闇から光の願心へと入れ替わるのである。
 
はたして自我はこの「千歳の闇室」の闇のように、すなおにこの「わが身」という部屋から退出するであろうか。いやそう簡単にはできないだろう。自分に対する執着はそれほど根深く、簡単に無くならない。しかし、闇はどれだけ千年ここに居たと言い張ろうとも、道理として光に会えば闇は闇でなくなるのである。必ずそこに仏の願いは至るのである。
(『ともしび』2020年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 
「聞」のバックナンバーはこちら

お問い合わせ先

〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199
真宗大谷派教学研究所
TEL 075-371-8750 FAX 075-371-6171