「わがつくりたる物なれども」
(松林 至 教学研究所嘱託研究員)

『歎異抄』は「如来よりたまわりたる信心」との法然上人と親鸞聖人の言葉を伝えている。思えば「如来回向」の教えをたびたび、「賜るものだ」という言葉で聞かせてもらってきた。聞法の歩みにおいて、自身の選びを超えて師友を賜る。私から発すのではない菩提心を賜る。そのように多くの先生から教えていただいた。
  しかし、私はこの「賜るものだ」との言葉を「私が選ぶのではない、発すのではない」という戒め程度に、いとも軽々しく受け止めてきたのではないか。自分の思いを超えたものだということだけを言い、聞かせていただいた仏法を実は自分とは関係のないものにしてきたのではなかろうか。いまさらに自分の無責任さを見つめながら、賜るとはいったいどういうことなのかと考えさせられるなかで、昔足を運んだ聞法会での宮城顗先生のお話を思い返した。
  それは『蓮如上人御一代記聞書』の一節についてであった。蓮如上人は、病気で臥せておられたときに、お弟子の慶聞に『御文』を三通二度ずつ読んでもらった際、「わがつくりたる物なれども、殊勝なるよ」(聖典八七八頁)とおっしゃった。
   はじめてあの文を読みました時はなんとまああつかましいと思いました。自分のものを(中略)「殊勝なるよ」とおっしゃったというんですから、なんということだと思っておりました。
  ところがその後だったと思うんですが、安田先生が創作するということについておっしゃったことなんですけども、ある彫刻家がライオンを彫ったと。そしたら彫りだされたライオンが彫った彫刻家を食べてしまったと。そういうのを創作というんだと、こうおっしゃったんですね。(中略)つくりだした人間よりもつくりだされたものの方が大きいという、つまりつくった者自身が自分のつくりだしたものに頭が下がると。そういう時にはじめてものを創作したと言えるんだと。それこそつくったものがお粗末なものですがというときは、本当のお粗末なんだということですね。自分で感動できんようなものをどれだけつくってみても、それはものをつくり出したということにはならんと。そういうお話をお聞きいたしまして、この『聞書』の蓮如上人のお言葉というものが、改めて思い返されたということがございました。(宮城顗「値遇」『連絡誌 大地』第六号、大地の会、二〇〇六年、四~五頁)
  私のつくった物だから殊勝だと言えばいかにも傲慢だが、私のつくった物ではないから殊勝だとおっしゃったのでもない。わがつくりたる物なれども殊勝なるよというところに蓮如上人の賜ったという事実があるのだと思う。聞いた責任を放り出して「自分がつくるものではない」とだけ言って済ませるならば、そこに「頭が下がる」ということはない。賜ればこそ「自分のつくりだしたもの」なれども「頭が下がる」。仏法は聞く者と離れたところにあるのではなく、聞いた者の賜った自覚としてあるのだと改めて教えられる思いである。
  「わがつくりたる物」への傲慢さ、そして無責任さのなかをウロウロしている私の態度に、「賜るものだ」との先達の言葉が今一度響いてくる。

(『ともしび』2020年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

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