「ただ本願を信じ、念仏を申すこと」
(都 真雄 教学研究所助手)

 

今年の年頭では考えることもできないことだったが、新型のコロナウイルスが世界で流行している。多くの方が亡くなられており、また休業や自粛等によって深刻な経済的被害が生じている。一刻も早い感染拡大の終息が望まれるが、ワクチンは未完成であり、苦しみが多く安心できない日々が続いている。

 

コロナウイルスがパンデミック(世界的な大流行)を起こしはじめたとき、私が最初に思ったのは、親鸞聖人や蓮如上人、そしてその時代を生きた人々についてだった。親鸞聖人や蓮如上人の時代も、疫病の流行をともなう飢饉が度々、起きている。大きな飢饉でいえば、親鸞聖人ならば、養和、寛喜、正嘉の三度の飢饉、蓮如上人ならば、長禄・寛正の飢饉である。それらの惨状は、様々な文書によって現代に伝えられており、いかに死と隣り合わせの生活であったかが知られる。

 

当時の人々の死に対する感覚は現代とは異なると思われるが、得体の知れない疫病が蔓延すれば、顕在的あるいは潜在的にさぞ不安を感じながら生活していたことだろう。その先人たちが感じたであろう不安を、今回、コロナウイルスの流行によって、私も自らの身で感ずることになった。同時に、飢饉や疫病が蔓延する状況の中で教えを依り処にして生き抜いた先人たちが多くおられたこと、そうであるからこそ、現代にも教えが伝えられている、そのことを有難く思った。

 

また今回、例えばコロナウイルスに感染してから一週間ほどで亡くなる方がおられたことを知って、私自身、無常であることを感じずにはおれなかった。ウイルスに感染すれば、健康な人が急逝することもあるからであり、改めて仏教で説かれる無常が現実の事実であることを知らされた。

 

思えば、親鸞聖人や蓮如上人やその時代の人々は、飢饉や疫病による痛ましい情景を数多く目にしておられ、無常は現代より身近な感覚だったのではないだろうか。例えば親鸞聖人は多くの方が亡くなられたことを悲しみ、そして「生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう」(聖典六〇三頁)と述べられている。あるいは蓮如上人が「白骨の御文」で「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」(聖典八四二頁)と述べられ、また悲しみを表現されている。そこには悲しみと同時に、仏の説く無常が示されているわけであるが、今回、改めてその背景や時代状況を思い、それらの言葉が、真に身に迫る言葉であったことに改めて気づかされた。そして、その無常という事実の中で、親鸞聖人は「念仏もうすのみぞ」(聖典六二八頁)と述べられ、蓮如上人は御文においてひたすら教えに生き、教えを人々に勧めておられる。

 

確かに当時の飢饉や疫病については既に知識として知っていたことであり、今までも親鸞聖人や蓮如上人の教えを聞かせていただいてきた。しかし、今回、ウイルスの流行を体感することによって、改めていかなる時、いかなる状態にあっても、ただ本願を信じ、念仏を申すことの重要性に気づかされている。

(『ともしび』2020年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

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