「出家前の覚信尼」 (御手洗 隆明 教学研究所研究員)

 

覚信尼は、宗祖親鸞・恵信尼夫妻の末娘として関東で生まれた。この時代、生没年や実名がわかる女性は少ないが、元仁元年(一二二四)の誕生、出家前の名は「おう(王)」であることが、父母の自筆書状よりわかる。特に母との文通は生涯続き、『恵信尼消息』として今に遺されている。

 

その第四通によると、父が病に臥した寛喜三年(一二三一)、「おう」は八歳であった。やがて家族と京都に移り、歌人の公家・久我通光(こがみちみつ)に仕えて兵衛督局(ひょうえのかみのつぼね)と号した。一説に十三歳の頃、又従兄妹(またいとこ)に当たる日野広綱(ひのひろつな)の側室となり、覚恵と光玉をもうける。覚恵が七歳の時、夫・広綱と死別し、子らを連れて父のもとへ戻ったという。

 

「おう」三十三歳の建長八年(一二五六)七月、越後に戻っていた母より書状形式の譲状を受け取る。土地の領主であった母からの「下人」に関する業務連絡であったが、これが『恵信尼消息』第一通である。この第三通から第六通が、「おう」三十九歳の弘長二年(一二六二)十二月、父の死について母に書き送った書状への返信であり、「善信の御房」こと親鸞について恵信尼が回想したものである。そこには「幼く、御身の八にておわしまし候いし年」(第四通、覚信尼八歳、聖典六一八頁)、また「千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年」(第五通、次男信蓮四歳、同六二〇頁)のように記され、夫の記憶が子らの成長とともに刻まれていたことがうかがえる。

 

母と娘の文通はその後も続き、家族の近況や領地経営のことなどを互いに知らせている。母の書状が、自身の年齢や体調のことから始まるのは今とあまり変わらない。続いて領地の「下人」やその子供たちの近況が記される。恵信尼にとって領地の人々も家族であった。第八通には今に言う「終活」を始めたことを伝えながら、「殊には末子(おとご)にておわしまし候えば、いとおしきことに思いまいらせて候」(同六二一頁)と、末娘への愛情をにじませている。が、穏やかな文面のなかにも、母としての厳しさを見せることもある。

 

最後となった第十通では、八十七歳の恵信尼が終末期にあることを告げながら、再婚した娘が前々年に生んだ孫(唯善)ら、三人の孫の身を案じている。特に「さいしょう(宰相)」こと光玉がいまだ独身であることが気がかりであったようで、「又、宰相殿いまだ姫君にておはしまし候うやらん」(同六二五頁)と記し書状を終えている。

 

公家社会の書状なので穏やかな文面だが、死を待つばかりとなった母から娘への強い叱責にも見える。娘は子らの「婚活」に動いたのであろう。覚恵はほどなく結婚し、翌々年に覚如(本願寺第三代)が誕生する。また光玉は従兄弟に当たる如信(本願寺第二代)の妻となったと伝わる。

 

のちに出家した「おう」は「かくしん(覚信)」を名とし、親鸞一族の事実上の当主として、また関東の親鸞遺弟と京都をつなぐ存在として、大谷廟堂建立など本願寺教団につながる礎(いしずえ)となった。慶讃法要の年である二〇二三年は、覚信尼誕生八〇〇年であることを記憶しておきたい。

 

(『ともしび』2020年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

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