「老い」て見える世界

著者:佐賀枝夏文(大谷大学名誉教授)


お釈迦さまは、今から二五〇〇年前、現在のインドの小さな国の王子さまとして生まれられました。

 

あるとき、お城の外へ出かけようと東の門から出ようとすると「老人」に、南の門から出ようとすると「病人」に、また西の門では「死人」にと、人生において逃れることのできない「老病死」に出会われました。そして、北の門ですがすがしい出家僧に出会い、出家されたといい伝えられています。お釈迦さまが二十九歳のときのことでした。

 

「老い」は、そのテーマである「老病死」のひとつであり、人間にとって逃れることのできない、じぶんの意思では叶わないことのひとつです。

 

「老い」に至る人生の歩みは、どれひとつも「夢」ではなく「事実」です。老いの道中は、「叶わない」「意のままにならない」ことのなかで、苦渋を味わい、また、悲しみのなかで、ひとはみ教えを聞き、正しく観ることを知ることになります。それは、「あきらめ」ではなく、「正しく観る」ことで、他人事ではなく、「じぶん」のこととしてみえてくるのだとおもいます。

 

ボクは樹木からさまざまな教えを聞いてきました。樹木は、陽春に芽吹き、新芽が育ちます。まるで赤ちゃんが育つかのようです。次第に季節が初夏に向かえば、新緑の葉っぱは立派に育ちます。そして、季節が移ろい秋になり冬に向かいはじめ寒風が吹き始めると、広葉樹の樹木は、錦秋(きんしゅう)の彩りをみせてくれます。「老い」の輝きが艶(つや)やかにさえみえます。ひとびとを、「もみじ狩り」に足しげく向かわせるのは、錦秋の彩りに秘められた多くの物語と出会うからではないでしょうか。その背景には、春の桜にはない、「人生の趣」を感じるからのようにおもいます。

 

そして、落葉の季節を迎えます。しかし、枯れ葉の後には、すでに新芽が準備されていることは、驚きです。「老い」は、単独であるものではなく、「起承転結」のなかにあり、それは、「いのち」の連なりでありバトンタッチのときでもあります。また、大地へ還(かえ)ることは、「いのち」の源(みなもと)である樹木を肥やす滋養となるのですから、「老い」のはたす役割は「尊い」ものであるといえます。

 

「老い」もこのように考えてみると、「老い」をじぶんのものと独占していることが間違いであることになります。じぶんの「老い」から、解放されて「つながり」のなかで考えてみてはいかがでしょう。大きな「つながり」のなか に、「連綿とつづく」なかに「いのち」があります。そのなかに、おひとりおひとりの「老い」があるということです。

 

このように「老い」も、じぶんの手元から解放されてはじめて、「衰えること」から意味が転じて、大きな「いのち」として「よみがえる」という世界がみえてきます。  

 

『すべてが君の足あとだから-人生の道案内-』(東本願寺出版)より

 


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版②)より

 

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。

 

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