「仏法のことにとりなせ」
(楠 信生 教学研究所長)

 

蓮如上人の御掟に、「仏法のことをいうに、世間のことにとりなすひとのみなり。それをたいくつせずして、また、仏法のことにとりなせ」と、おおせられ候うなり。(『蓮如上人御一代記聞書』聖典八六六頁)

 

蓮如上人は「仏法のことを話しているのに、世俗的な受けとめをする人ばかりである。それに退き屈することなく、また、仏法のことに姿を変えさせるようにしなさい」と説かれます。

 

仏法を聞くことは、容易なことではありません。まず私たちにはそれぞれ、これまでの生活で養われた習慣・感覚というものがあります。そして、その養われたものを基本に受け止めがなされます。したがって、仏法の話を聞いて世俗の生活、つまり日常生活が問題となるのではなく、むしろ世俗の感覚を根拠に仏法を評論的に聞くことは当然のことになります。日常生活の知識が高度に進んだ現代は、蓮如上人の時代と比べて、世俗の論理を根拠にする状況がさらに進んでいると言えるのではないでしょうか。

 

それに対して蓮如上人は「それをたいくつせずして、また、仏法のことにとりなせ」と語られます。退屈とは、現代では何もすることがなくて暇なことという意味で使われています。しかし元来は、困難に対して、退き屈すること、恐れ退くこと、嫌気がさして気力を失うという意味です。そして仏教語としては、仏道を求める心が退き屈するという意味です。

 

あらためて「仏法のことをいうに」を考えてみると、世俗的な受けとめで仏法のことを話しているつもりになっていないかということがあります。「信心について語る人はいるが、信心で語る人がいない」という厳しい言葉があります。また「気のきいた話をしようとする人が語れば漫談になり、まじめな人が話せば感話になる。法話というのは難しいものである」という指摘もありました。このことは、感話のような法話では駄目ということではなく、法話には教えの本質を純粋に明確に伝える役目があることを話されたものと思います。その意味で「仏法のことをいう」のは、凡夫は仏陀ではないので、容易なことではありません。

 

そうすると「それをたいくつせずして、また、仏法のことにとりなせ」に、さらに大切な意味があることが知らされます。

 

「世間のことにとりなすひとのみ」ですから、そういう人ばかりであるということです。私もその一人であるのです。その一人である自分が「たいくつせずして、また、仏法のことにとりなせ」と言われるのです。

 

「たいくつせずして」ということは自らの心に鞭打って「退き屈しないように」と強い意志を持ってできるようなことではないのでしょう。「たいくつせず」が個人の努力に由来するものであるならば、それはまた「世間のことにとりなす」ことになるのではないでしょうか。大切なことは、退屈させないものは本人の強い意志ではなく、賜った僧伽、つまり「とも・同行」なのであります。

 

退屈しないことも仏法のことにとりなすことも、本人の作為的な心によって成しとげられるようなものではありません。如来の教えに帰して、賜った僧伽によってこそ、「たいくつせずして、また、仏法のことにとりなせ」ということが具体的な力となるのであります。

(『ともしび』2020年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

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