ハンセン病問題に取り組まれる方々に、様々な視点から新型コロナウイルス感染症にかかわる現状と課題について、全4回ご執筆いただきます。現状に閉ざされることなく、議論を始める機縁としたいと思います。

 

コロナ禍とは何か

「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」真相究明部会 菱木 政晴 さん

 

 ウイルスの感染が引き起こす苦しみには、病むその人に集中する病そのものの苦しみと、感染を恐れるあまり、社会が不適切な対応を取ることによって、病む人本人だけでなく、家族や医療従事者などを含む周辺の人たちを苦しめる「病そのものとは別の苦しみ」の2つがあります。私たちは、このことをハンセン病問題に取り組む中で学んできました。そして、病においては後者の苦しみがより本質的であって、その解決がなければ、病む人の苦しみも倍加させることにも気づかされてきました。コロナウイルスにおいてもそれは同様です。

 今、あらためて社会を見つめれば、人びとを苦しめている最大の要因は、検査体制の整備を怠り、感染しているのかどうかさえ知らされることなく、ただ黙って自粛せよという対策しか示さない政府だと私は思います。初期には、高熱があるのに、自宅で4日間もの待機という指示さえありました。このようなひどい政策が出された経緯は徹底的に明らかにされねばならないでしょう。

 

●抜苦与楽―「確かな未来の実現」

 この状況をどう打破するか。どうすれば、「人びとの苦しみを抜き、自他に安楽を与える(抜苦与楽)」ことができるか。「抜苦与楽」すなわち「慈悲」について『歎異抄』は「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」道だと言っています。また、蓮如上人のいわゆる『疫癘の御文』には「かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて」と、現在私たちが「念仏申す」ことこそが首尾一貫した慈悲なのだと力強く述べています。

 「念仏申す」とは、「『慈悲が完全に実現している阿弥陀さんの国っていいですね、私もその国に賛成です』と声に出して言うこと」ですが、これは「慈悲にまったく欠け、自分の言うことを聞くものだけをえこ贔屓して、言うことを聞かせるためにこのコロナ禍をも利用するような権力者たちに反対です」という姿勢をとることを、当然にも意味するものだと私は思います。

 つまり、念仏申すことは、慈悲の実現する世界を信じてそれに逆行するこの世を問い続ける決意のことです。『歎異抄』の「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき」とはそういう意味です。

 私は、この方法によってしか、戦争も、原発問題も、コロナ禍も、克服できないと思います。これが、親鸞聖人が仰る他力の働きです。すなわち、「われら煩悩成就の凡夫が必ず往生してこの世界に還って思うがごとく他者を利益することを可能にする阿弥陀如来の本願力回向」ということです。それは、私たち普通の者が、慈悲が実現する世界に向かうぞと決意して、その歩みが止まることはないと信じ、私たちこそが慈悲の担い手であり、解放の主体だと決意することです。それが「確かな未来」の実現になります。このことこそが、人びとに安楽世界の希望を確信させるのです。

 

●声に出す念仏

 法然上人は「念仏申すこと」に必然的にそなわっているものとして「三心四修」を挙げます。「三心」の第一は「至誠心(嘘偽りのない誠実な心)」ですが、なぜこれが「往生するぞと思い取る」ことにそなわっているのかといえば、声に出す念仏とは、必然的に「知っていることに知らないふりをせず、知らないことを知っているふりしない」ことになっているからです。声に出すということは、心の中で固く「思っている」こととは違って、自分だけでなく他人にも聞こえる、聞こえてしまうという特徴を持っています。ともかく気になることや、気に入らないことについては、気軽に表現しましょう。

 ちゃんと知らないのに、本当に納得したわけでもないのに、おとなしく分かったふりをして引きさがることはやめましょう。「知っていることに知らないふり」どころか積極的に隠蔽して、なんとか声に出した者を追い詰めるような人たちが相手ですから、「勝れて易しい」方法とはいえ、誰にも咎められない方法とは言い切れませんが、弥陀の「護るぞよ、心配するな」の呼び声を聞きつけて、彼らの地獄落ちを救う意味でも声に出し続けましょう。

 納得できないことを納得したふりをする、納得しようと無理をするのは内外不調(ないげふちょう)と言って至誠心の反対です。どんなにひどい政権が相手でも、専修念仏の道を歩みましょう。どんなにひどい相手でも、回心慙愧して他力頼みたてまつる者になれば、極楽往生するのです。

 私たちにとって「真実自分自身がしたいこと、しなければならぬこと、できること」は、このように、コロナ禍に対する社会的対応についての対等な議論です。難しいことは「専門家」にまかせて私たちは家でおとなしくしているしかないなどと考える必要はありません。

 社会的対応が対等でなければならないことは、ハンセン病問題の経験から学んだはずです。対等な社会的対応のためには、論議も対等でなければなりません。これは、違反した者に罰則を設けるとか自粛を強要するということとは根本的に異なることです。専門家と素人が対等に相手を尊重する道です。どの「専門家」を信じたらよいのかなどと主体性を放棄するようなことを言ってはいけません。弥陀の本願以外に、私たちを真に納得させるものは無いのです。対等でないとき(この時の方が圧倒的に多いのですが)は、必ずすえとおりたる慈悲の世界を実現させるという本願を信じて闘いましょう。これは、誰にとっても易しくできることです。弥陀の本願は特別の者だけが知ったり納得する「奥深い・難しい・高級そうなもの」でないことだけは確かなのです。

 

●雑行を棄てて本願に帰す

 だから、「(奥深い・難しい・高級そうな)雑行を棄てて本願に帰す」決意を持って、自らが「専門家」と対等な同志に成ろうではありませんか。素人が「専門家」と対等な世界こそが、目指す世界です。検査自体のやり方や読み取り方について多少慣れている者は確かにいますが、やり方や読み取り方が誰にでも平等に公開されていれば、素人でも未来の方針について対等にささやかな知恵を出し合うことができます。遠慮することはありません。病気になった人も、そうでない人も共にこの難局を生きていきましょう。ともに自他が安楽な世界を目指しましょう。

 

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年9月号より