「執着をこえて」
(安藤 義浩 教学研究所嘱託研究員)

 

安冨信哉前教学研究所長が大谷大学教授時代、世界のさまざまな宗教者が集う会議で講演を行ったことがある。場所はイギリスのオックスフォード大学。仏教者だけでなく、キリスト教者もいれば、イスラム教者もいる中での講演の講題は「執着をこえて」(日本語訳)だった。その内容を私なりにまとめると、それぞれの宗教で自己への執着(我執)をこえた時、その次にその宗教への執着(法執)が起こる、その法執とは自分の信じる教えを絶対化し、他を排除していくことであり、そこをこえていくところに、他の宗教への理解、すなわち宗教間対話が進む、というものだった。

 

自己の殻が破られていくところに宗教の役割の一つがある。しかし、わが法ばかりに浸かっていると、かえって自己の殻に閉じこもってしまう危険性がある。居心地がいいのだ。だから健全な信仰には、他の法も勇気をもって聞くことによって、わが法を照らしてもらうことが時に必要だろう。

 

ここでいう他の法に当てはまるものは他宗教だけではない。他宗派の教えもそうである。浄土真宗本願寺派の本や記事も読むようになって、感銘を受けた歌がある。

 

われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 弥陀のよび声
(幕末~明治の本願寺派僧侶、原口針水作)

 

この歌には親鸞聖人のいただかれた念仏が凝縮されている。単に「大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり」「本願招喚の勅命なり」などと私たちが知識としてわかったように言うのは、ある意味、簡単である。その教言が「われ」とどう関わってくるかという「聞思」がここには深く感じられる。念仏を称え、それを聞くのは私であるが、その声はそのまま、私の声となってはたらき出た阿弥陀仏の声である。阿弥陀仏は「必ず浄土につれていくぞ。まかせなさい」と、私によびかけている。そのような身を通した味わいは、読む者にとても響く。

 

この響きのなかで、次の曽我量深先生の言葉を聞くと、先生の言葉が共鳴しさらに深まりをみせてくる。

 

如来われとなりて 我を救いたもう
(「地上の救主」『曽我量深選集』第二巻〈彌生書房、一九七〇年〉四〇八頁参照)
仏様はどこにいなさるか 仏様を念ずる人の前においでになります。
(『ともしび』一九九〇年五月一日発行)

 

煩悩具足の凡夫をあわれみ、救わずにはおれないと、一如からあらわれて、凡夫の身に念仏の声としてはたらきででくる阿弥陀如来のすくい。そのすくいがよびかけであることがよりはっきりしてくる。また、仏の無分別智からすると、凡夫(生死)と如来(涅槃)は即一であるが(「生死即涅槃」)、浄土真宗は、まず凡夫と如来を二つ(別のもの・不一)として説き、如来のはたらきによってそれらが一つ(不二)であることを示す教えである、と確かめることができる。

 

宗教離れがすすむといわれるなかにあって、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」(『歎異抄』)などと言っている猶予はあまりない。どこまでも出離生死のため、対話していく必要があろう。それは自己との対話でもある。

 

(『ともしび』2020年12月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

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