やり直せなくても生き直すことができる

著者:梶原敬一(姫路医療センター小児科医長)


念仏者という人の前に立つと、自分の身が震える。念仏者と遇ったときに、自分の身が震えるのは、自分の身もまた念仏せねばならないという思いによって震えるのです。念仏者の姿は尊いし、美しいです。それはただ尊くて美しいだけではない。その人の前に立ったときに、自分の身が震えてくるような思いをするから尊く、美しいのです。そういう人には、できたら遇いたくないような美しさかもしれません。ただその人に遇ったときにはじめて、自分が本当の意味で生きていくという新しい時間がはじまる。念仏者に遇うことは、自分の人生が新しくはじまることです。自分の人生が新しくはじまるということにおいて、はじめて生まれてきたということが成就されるということです。

 

人間はただ生まれてきて、一生懸命生きればいいというものではない。生まれてきて、一度死ななければならないということです。一度死んで、もう一度生まれ変わることにおいてはじめて人間が人間を成就するのです。浄土教の教えというのは、単に生きろということだけではない。死んで生きろと言っているのです。死んで生きるということは、生まれ変われと言っている。あるいは生き直せと言っている。  

 

人生やり直すなどということはできません。ご存じのように、いくらやり直すぞと言っても、それまでやってきたことのつけは払わなければならない。どんなことをしていても、人生を反省して新しくはじめればいいと言うけれど、反省したくらいでおさまらないことは山ほどある。自分の人生を振り返って、これでご破算にして、今日からまたゼロからはじめたいと言っても、そうはいかない。人生にやり直しなどはないというのが、私のひとつの信念であります。やったことはすべてつけとして残っている。  

 

やり直しはきかないけれど、生き直しはできます。生き直すことはできる。生き直すことと、やり直すことは、何が違うか。生き直すことができるのは、世界が変わるからです。自分が今まで見聞きしてきた世界と違う世界を生きるから、生き直すことができる。お浄土という世界を生きるのです。それは、耳というもの、目というもの、私の五感全部が変わって、世界の受けとめ方が変わるからです。今まで見えなかったさまざまなものが見えることによって、生き直すことができる。人間の根性は変わらないかもしれません。でも、人間の根性は変わらなくても、自分が自分の世界だと思い込んでいたものが、その感覚が変わることによって、新しく生き直すことができる。念仏を聞いたときに、それが可能であるということを、親鸞聖人が言われたのだろうと思います。親鸞聖人は、新しい世界を生きておられたのだと思います。  

 

『生きる力』(東本願寺出版)より

 


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版⑫)より

 

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。

 

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