二河の彼岸会

著者:榊 法存(山形教区皆龍寺住職)


 

 

「暑さも寒さも彼岸まで」は日本ならではの言葉。私たち日本人は、四季それぞれの季節感を生活の中に取り入れながら生活しています。 

 

仏教発祥の地インドの仏教徒は、季節というよりもお釈迦様に関わる時期を大事にされてきました。まずお釈迦様がお生まれになった四月八日を誕生会として大事にします。それから覚りを開かれた十二月八日の成道会、二月十五日の涅槃会などがお釈迦様にまつわる時期です。それからお盆(盂蘭盆会)も忘れてはなりません。 

 

仏教が日本へと伝来されると、彼岸会・修正会も入ってきます。こうして並べてみますと全部に〝会〟という字がついています。これは〝法会〟ということです。つまり、いろんな時期や大事な日をご縁として仏法にお会いする、ということなのでありましょう。私たちは生活の中で、なかなか仏法のことを考える余裕がありません。そこで何かを機にして仏法を聞く時と場を設けるということが考えられてきたのだろうと思われます。

 

それではお彼岸という法会は、どんな意味があるのでしょうか。その日は太陽が真東から出て真西に沈むことからお浄土に至ることと彼岸に到ることとが重なって到彼岸の意味を示されていると言われます。でも、生活の上では真東か真西かということは、あまり実感的ではありません。私にとっては、やはり暑さ寒さの境といった方が実感します。 

 

さて、私は、彼岸というと善導大師の「二河白道」の譬えを思い出します。ある旅人が西に向かって行くと突然火の河と水の河に出くわします。火の河は南に広がり、水の河は北に広がっています。私の住んでいる山形は夏は暑いし冬は寒い所ですので、私にとって火の河といえば灼熱の真夏を思い起こします。夏はちょっとしたことに腹が立ちイライラしてしまいます。そんな私に善導大師は「瞋憎は火のごとし」と教えてくださいます。また冬は雪に覆われ底冷えに耐えながら、暖かさをむさぼりたいとの思いで鍋の具を奪い合った幼い頃を思い出します。これを「貪愛は水のごとし」と教えてくださいます。まさに暖かいごちそうを奪い合って兄弟の関係が冷たく冷え切った関係になってしまいます。 

 

そして旅人は、その火の河と水の河との中間に白道を見つける、と描かれています。それが彼岸への道だろうと思います。

 

善導大師は続いて「中間の白道四五寸というのは、衆生の貪愛・瞋憎の中に清浄願心を発すに喩えている」と説明しています。「貪愛・瞋憎の中に」とは、まさにその通りだと思います。春の彼岸の時は、これまでは〝やっと寒い冬が終わった〟と思っていましたが、そうではなくて〝これからあのイライラするような熱い季節がやってくる。その中で私はどう生きるのか〟と、その中に身を置いて考える時ではないのでしょうか。秋の彼岸もまた同じことです。 

 

私たちの人生は楽しいことばかりではありません。人は皆いろんな苦しみや悲しみをもって生きています。でも、人は苦しみや悲しみから逃げて幸せになるのではなく、苦しみ悲しみの中に救われていく道があることを示してくださっているのです 

 

だからこそ、悲しみや苦しみの中に飛び込む勇気が授けられるのではないでしょうか。そして、今苦しみ・悲しみのまっただ中にいる人も、まさに今こそ救われる時なのだ、ということをしっかりと心に留めて生きてほしいと思うのです。

 


東本願寺出版発行『お彼岸』(2018年春版)より

 

『お彼岸』は、毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『お彼岸』(2018年春版)所収の随想の一つをそのまま記載しています。

 

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