恐怖から生れる差別―ハンセン病と新型コロナウイルス感染症―

敬和学園大学人文学部国際文化学科教授 藤野 豊 さん

 

 2001年5月11日、熊本地裁が、らい予防法違憲国賠訴訟で、ハンセン病隔離政策は人権侵害であり、隔離を規定したらい予防法は違憲であったとして国に原告への賠償を命じる判決を下し、日本社会がハンセン病問題という新たな人権問題の存在に気付かされた。しかし、それからまだ四年しか経っていない頃からおかしな「巻き返し」が顕著になり、今に及んでいる。それは、すくなくとも国側ではなく、原告側に立っているであろうと思われていたひとびとの間から発せられた主張であった。

 ハンセン病療養所は患者を社会の差別から救った「アジール(※)」であったとか、隔離政策の発端となった法律「癩予防ニ関スル件」(1907年公布)は患者救護の法律であったとか、あるいは患者の絶対隔離を目的としたとされる癩予防法(1931年公布)の下でも自宅療養患者は存在したのであるから絶対隔離は不徹底であったとか、実証をともなわないで結論だけを強調する、およそまともな議論とは言えない主張が堰を切ったように飛び交いだした。それらは、あたかも実証抜きに南京大虐殺はなかった、慰安婦への日本軍による強制はなかったと主張して自己の「愛国」の念を満足させているひとびとの手法と同じレベルのものである。しかも、療養所は社会の差別から患者を救済した「アジール」であったと主張するひとびとは、その社会の差別を作ったのは、国策の絶対隔離政策であったという根本的な事実を忘れている。

 絶対隔離政策を進めるために、1930年代後半からすくなくとも戦後の1950年代まで癩予防協会などの「救らい団体」と国、自治体が一体となって「無らい県運動」が展開された。ハンセン病患者をすべて隔離して患者がいない県を作ろうという趣旨のこの運動の下、自宅で隠れている患者、ほとんど症状が現れていない軽症患者の摘発も進められ、住民には密告が奨励された。ハンセン病は恐ろしい感染症であり、患者が近隣にいると周囲の人に感染するという宣伝が続けられ、住民の恐怖感が煽られた。ハンセン病は不治であることばかりが強調され、生涯隔離も正当化された。実際には自然治癒した患者もいたのであるが、そうした事実はほとんど公表されず、ひたすら不治の病ということが強調された。こうした感染力と不治を強調して隔離を進める国策により、ハンセン病は恐怖の対象となり、ハンセン病患者のみならず、家族も感染しているに違いないとみなされ、家族も地域から排除された。たしかに、隔離された患者は隔離により社会の差別からは「解放」されたかもしれない。しかし、療養所のなかで、強制労働、強制不妊手術、恣意的な監禁という国家の差別に直面する。療養所は「アジール」どころではなかった。

 こうしたハンセン病患者が受けた差別の歴史を概観するとき、今、わたくしは新型コロナウイルス感染症が流行しているなかで生じた差別について考えざるを得ない。新型コロナウイルスの感染者や治療に当たる医療従事者、さらにはその家族への差別が全国各地から伝えられている。感染者と同じ施設を利用した人が職場で嫌がらせを受けたり、治療に携わる看護師が隣人から訪問を拒否されたりもしているという。さらに、「自粛」が叫ばれるなか、県外ナンバーの車に傷がつけられたり、営業していた店に嫌がらせの張り紙がなされたりもしている。「自粛」していない店を摘発する「自粛警察」の存在も報道された。

 こうした差別はなぜ生じたのか。それは、この病気が感染するという恐怖と、決定的な治療薬がないという恐怖に由来する。さらに、国や自治体は、感染源となりやすい職種を強調し、そこに働くひとびとへの恐怖を煽っている。国策により特定のひとびとへの恐怖が煽られ、社会に差別意識が拡大している。まさに、ハンセン病に対する差別と同様の構図である。

 国や自治体は、恐怖を煽るよりも、まず、患者や家族への差別、治療にかかわる医療従事者への差別、特定の職業に従事するひとびとへの差別があってはならないという啓発を進めるべきであろう。コロナ禍からの経済回復ばかりが叫ばれるが、こうした差別を防ぐ努力も必要ではないか。その際、単に、差別をしてはいけません、人権の大切さを理解しましょうなどと説教をしてすますのではなく、なぜ、そのような差別が生じたのか、その原因を明確にし、差別を生み出した構造を問題とする人権啓発がなされるべきであろう。国策の誤りが社会の差別を生み出すという事態を繰り返してはならない。ハンセン病差別の歴史から、わたくしたちはそうしたことを学んだのではないだろうか。新型コロナウイルス感染症が流行する今、あらためて、2001年5月11日の熊本地裁判決の意義を考えるときではないか。

 

※「アジール」とは、宗教的権威により政治権力の介入を拒否できた場所。中世ヨーロッパの教会や日本の伝統的寺院などが事例としてある。 

 

《ことば》
「楽生院に関する資料の多くが日本語で書かれていたからです」
黃淥(ホァンルゥ)
青年楽生連盟

 

 一昨年、縁あって台湾楽生院を訪ねた際に案内と通訳をしていただいた方の一人が、回復者との交流を続けている黃さんでした。昨年開催された全国交流集会には、彼女を含め台湾から三人の方が参加されました。その前日には大聖寺にも寄っていただき、仲間とささやかな交流会をしました。そこで黃さんに、なぜ日本語を勉強したのかを尋ねたことへの返答がこの言葉です。

 私は衝撃を受けました。台湾が日本の統治下にあった1930年に楽生院が開設されたことも、台湾やアジア諸国に対する日本の同化政策についても少しは知っているつもりだったのですが、全く想像できていなかったことを知らされたからです。

 後日、そのことを思い返す中で、日本語を学んでまで楽生院のことを知ろうとする熱意はどこから来るのかを尋ねたいと思うようになりました。黃さんたちは、楽生院の過去と未来、内と外とをつないでいこうと、様々な取り組みをされています。その姿勢に、ハンセン病問題に向き合う中で私にもまだまだできることがあると、今も背中を押されています。

(大聖寺教区 飯貝宗淳)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年10月号より