「それは「禍」なのか」
(藤井 祐介 教学研究所嘱託研究員)

昨年以来、「コロナ禍」という言葉を耳にするたびに引っ掛かるものがある。何よりも「禍」の一字が気になる。国語辞典によれば、「禍」という言葉は「よろこばしくない事柄」や「不幸をひきおこす原因」を意味する(『岩波国語辞典 第八版』、岩波書店、二〇一九年)。

 

なぜ、「禍」が気になるのか。例えば、ある出来事が起きた時に悪い結果を伴うことが予測されていて、その出来事が現実に起きたとしよう。そのような予測可能な悪い出来事を「禍」と言うのだろうか。「禍」という言葉を用いると、偶然に起こった出来事であるかのように感じてしまう。しかし、「コロナ禍」は、偶然の出来事であるとは言えないのではなかろうか。

 

二〇〇三年にアジアで起きた「SARS(サーズ、重症急性呼吸器症候群)禍」を思い出す。「SARS禍」が国際化と表裏一体の関係にあったことは、すでに指摘されている。多くの人びとが国境を越えて往来する国際化の時代には、細菌やウイルスが宿主とともに国境を越える。その結果、新しい感染症の流行が広範囲において生じる。感染が拡大するにつれて国家間の利害関係にも影響を与える。

 

当時、経済産業省の『通商白書』は、「SARS禍」が日本経済に与える影響を次のように予測していた。「二〇〇三年の景気は引き続き緩やかな成長が見込まれているが、米国経済の先行きや、アジアを中心としたSARS禍の影響により、日本経済も下押しされる懸念が存在している」(経済産業省編『通商白書 二〇〇三』、経済産業調査会、二〇〇三年)。

 

他国の「SARS禍」は日本にとって他人ごとではなかった。日本国内においても感染拡大の可能性があったのである。また、新しい感染症に対して一国ができることにも限界があった。当時、厚生労働省の『厚生労働白書』は「SARS禍」に関連して次のように述べている。「東アジアでのSARS(新型肺炎)勃発により、急速に波及する新興感染症という新たな脅威に対して国際社会の協調的取組みが不可欠との機運が高まった」(厚生労働省監修『厚生労働白書(平成一五年版)』、ぎょうせい、二〇〇三年)。

 

その後、「SARS禍」の終息直後においても別の感染症が流行する可能性が予見されており、アジア各国では感染症対策が急務であるとの認識が共有されていた。しかし、時が経つにつれて、感染症の脅威を議論する機会は少なくなっていった。二〇〇九年には「新型インフルエンザ禍」が起きたが、それもすぐに忘れ去られた。いつの間にか、自分たちの経験したことが他人ごとになってしまったのである。

 

国境を越えた人びとの移動、航空輸送の急速な拡大、保健行政の縮小、医師・看護師不足の常態化、国家間の険悪な関係……「コロナ禍」以前に感染拡大の要因は揃っていた。これらの要因が積み重なった必然の結果として「コロナ禍」が起きたのではないか。

 

このような必然の結果として起きた出来事を「禍」と言うのだろうか。

 

(『ともしび』2021年7月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)  

 

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