信心のさだまるとき 往生またさだまるなり

法語の出典:「末燈鈔」『真宗聖典』600頁

本文著者:足利栄子(久留米教区了德寺衆徒)


この『末燈鈔』のお言葉の背景には、命が尽きた時(臨終)に、仏陀や菩薩が浄土から迎えに来る(来迎)を願う心(十九願)ということがあります。ここで親鸞聖人は冒頭に、仏陀や菩薩の来迎は、諸々の行を修して往生を願うのである。それは、自分自身の力をたのみ、励む行者であるからである。とはっきり述べられ、真実の信心を得た行人は、阿弥陀仏の摂取不捨のはたらきによって信心が定まるときに、必ず浄土に往生し、さとりを開く身となることが定まるのであると述べられています。このことを踏まえて、「信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」と仰います。

 

親鸞聖人がお生まれになられた時代は、臨終来迎を重要に考えていました。親鸞聖人の末娘の覚信尼も『恵信尼消息』の三通目を読む中で、親鸞聖人の往生について疑問を持たれていたことを伺うことができます。

 

私は浄土真宗の教えを学ぶまで、仏教について無知でした。生活や義務教育の中で、命の大切さや命の平等性について教えられてきましたが、「いのち」について深く考えたことはありませんでした。ですから、仏教でいういのちは、「生死するいのち」であり、具体的には「死のある生をいきている」と教えていただいた時に私は驚きました。それまでは、いのちを「生」のみで考えていました。生と死は別のことと捉えていたのです。死のことを考えると暗くなるので、考えないようにしていましたし、死は遠い先のことだと思っていました。

 

仏教は身の事実を具体的に教えてくださいます。しかし私たちは、自分のことは自分がよく知っていると、身の事実をわかったことにしてしまいます。仏語さえも自分の都合のいいように解釈し、イメージ化して、観念化してしまいます。身の事実を教えていただくと、自己中心的にしか考えられない心の問題が見えてきます。自我意識の問題です。この自我意識の問題を仏教では、煩悩と教えてくださいます。煩悩が起こることによって私たちは、日々悩み、苦悩します。しかし逆に現代の生活は、煩悩を満たすことによって、悩みや苦悩を少しでも感じないように生きているように感じます。そういう意味では、私たちの生活は、誤魔化しの連続ではないでしょうか。

 

生活の中で、虚しさを感じることはありませんか。

 

どうやら私たちは、迷いの世界の中で、迷っていることにも気付かずに生きているようです。

 

親鸞聖人はご和讃で

本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし             (真宗聖典四九〇頁)

と本願のはたらきに出遇えた喜びを詠われています。

 

その弥陀の本願について『歎異抄』では「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」(真宗聖典六二六頁)と記されています。親鸞聖人は苦悩する私たちに阿弥陀仏の本願と衆生救済を教え、勧めてくださっています。

 

私たちに向けられている阿弥陀仏の願いに素直になった時、信心が定まり、必ず阿弥陀仏の浄土に生まれることが定まるのだと教えてくださっているのだと思います。

 

 


東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【2月】)より

 

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

 

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