ともに生きていく人となる

著者:真城義麿(四国教区善照寺住職・真宗大谷学園専務理事)


「人間」という言葉は、「人の間」と書くように、「間」という関係性・つながりに支えられて「人」があるということでしょう。人は、関係の中で生まれ、関係の中で生き、いのち終えた後も関係は残ります。

 

「生きる」ということは「ともに生きる」ことなのです。

 

ただ、私たち人間は「私の都合」ばかりを考えています。岩本泰波先生の『一語一絵』という本に、「甘いものを見つけた蟻は必ず集団に持ち帰るが、人間はこっそりひとりで食べようとする」とあります。そんな私たちにどうすれば、「ともに」が成り立つのでしょうか。

 

人間は、優越的でありたいとか、自分が主導権をもちたいとか、自分の思いどおりに事を進めたいという思いがあります。また、自分が「この進め方がうまくいく」と考えた時に、それに賛同しない、あるいは足手まといになる人を疎ましく思います。そういう人同士が同じところにいると、強い人や多数派が、弱い人や少数派に対して支配的になり、いじめや無視や排除を生むことがあります。自分が優位に立つために、不都合な誰かを犠牲にしてしまうのです。それは、いじめた側が人間性を失った姿ですが、本人は気づきません。

 

お釈迦様は人間のもつそういう傾向をよく観察されて、互いが尊重しながらともに生き合うことができるよう教えを説かれました。

 

お釈迦様がおられた当時のインドでは、カースト制度という差別的な階層社会がありましたが、お釈迦様は生まれによる差別を一切認めませんでした。尊い者同士として争わずに生きることを求められ、そのために実践すべきことを教えられたのです。

 

その実践すべきこととは、損得を考えず他者のために今できることを行うこと、約束を守り合い尊敬し合うこと、怒りや憎しみから解放され許すこと、駆け引きをせず誠実に尽くすこと、まわりの雑音や「とりあえず」に振りまわされず大事なことに集中すること、出会う物事を二つに分けて「どちらがいいか」という発想に立たずありのままに見ようとすることなどです。

 

しかし、それが大事だとわかっても、実際にはなかなか実行できませんね。

 

仏教は、自分も他者もともに弱い者同士であり、かつ尊い者同士であると教えます。そこで気づかされることは、いじめている人が傷つけているのは相手の尊さだけではなく、いじめている自分自身の尊さをも傷つけているということです。

 

自分の中に「私の好都合のために、他者に不都合を強いる」心があることに気づくことができれば、他者との関係が変わっていくでしょう。

 

『成人したあなたへ』(東本願寺出版)より

 

 


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2018年版②)より

 

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2018年版)をそのまま記載しています。

 

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