真宗とハンセン病―上―

山陽教区光明寺前住職 玉光 順正

  

 瀬戸内海の小島に国立(らい)療養所長島愛生園が開園したのは、1930(昭和5)年11月。翌年1931(昭和6)年3月、多磨全生病院から81名、途中収容の4名と共に85名が入園。光田健輔氏が園長に就任。同時にと言ってもいいだろう、愛生園内では、多磨全生病院から転園してきた栗下信策氏を中心に「真宗同朋会」が発足するのである。

 のちに気がついたことでもあるが、この「真宗同朋会」という呼び名も、長島愛生園開園直後ともいえる、1931年に付けられていたことにも、驚いたことを思い出す。真宗大谷派で「真宗同朋会とは、純粋なる信仰運動である」と提起されたのは1962(昭和37)年である。

 大谷派でも1931年、同時に「大谷派光明会」が「癩予防並びに救護慰安を目的として」設立された。「癩絶滅運動と大谷派光明会の発会」という武内了温氏の文章がある。そこには、これが武内さんの文章かと、驚くような国策に随順したものばかりがある。

「若しそれ、癩絶滅の重要性に国民が自覚促進するところ無くば、われ等は何時癩に侵さるるか測られないのである。而して極端に云えば、全然これを等閑に附するに於ては、死の必然に来るが如く、如何に血統の清浄を誇るものも、皆癩の前に破滅を見る時が来るのである。」

「単に一個人の破滅ではない。一人出家すれば九族天に生るといふが、一人癩に感染すれば九族地獄に堕するのである。」

「癩患者は、いち早く癩を自覚すれば、あるや無しやのこの世、善導大師の到る処愁嘆の声のみの六道流転の夢より始めてさめたる心地に、魔境停るべからずとなし、癩絶滅のため皇国のため、人類の幸福のため、雄々しくもただひとり療養所の門をたたけば、何等の後顧の憂い無く、家族に伝染せしむる事なく、血統は永遠に清められ、九族は一層にさかえるのである。決して氏素姓や財産しらべすらもしないのである。」

「目標は癩の根絶絶滅のために、絶対隔離の合理的にして人道的なることを知らしむるにあるのである。」

「われ等光明会は、その同情喚起、一般啓蒙、救護慰安の実動によって、自ら(へい)()(だい)の心を去り、その最後の目的たる絶対隔離の実行を、一日も早く完成しなければならぬのである。」

 さて、私がはじめて、ハンセン病療養所を訪れたのは、福地幸造さんの「遅すぎたにしろ、気がついた時点から、「実行上」のこととして、動くのが「仁義」だろうと思う」という言葉に促されてのことである。それは、今も続いているが、長島愛生園の1983(昭和58)年4月の大谷派が担当している「春季慰霊祭」だった。その時は、いわば見学であったが、その後、真宗同朋会の役員の方々とも相談して、隔月に訪園することになったのだった。

 その最初の時だったと思う、Tさんから「先生、らいの話はもういいんです、法話をしてください」と言われたのである。私は一瞬びっくりした。そして考えた。ハンセン病療養所でらい(ハンセン病)を抜きにした法話ってあるのか、と。また同時に、「そんな話では何の力にもなりません、ありきたりの法話でなくもっとしっかりした法話をしてください」と言われているのか、と。ある意味、法話とは何なのか、この体験は、私にとっては大きなものでもあった。そしてその後も色々なことを考えさせてくれている。隔月だから、二ヵ月後行ったときに、Tさんは「えらいことを言ってしまった。らいのことを考えない日は、一日としてないのに」と言われたが、そのことに改めて私は課題をもらったのだった。

 訪園三回目ぐらいだっただろうか、今度は当時もう80代だった、本当に真摯な聞法者、Sさんに「先生、何故もっと早く来てくださらなかったのですか」とも言われた。当たり前の話だが、ごめんなさいと言って済む話でもないのでこれには答えようがない。しかしそれは、「答えようがないで済む話でもない。それは、あなたはこれからどう生きられるのですか」という厳しい問いかけでもあったと思う。

 最初から、私の訪園は、私だけではなくて、一緒に多くの、5人10人とか、もっと多い時もあったかもしれない。当時、市川・親鸞塾やその他様々な友人、仲間たちと共にであった。だから私たちにとっても、ものを考えるとてもいい機会になっていたように思われる。最初は、多くの人たちが一緒に来るので戸惑っておられたようでもあるが、次第に子ども連れで行く人もあったり、ときには法話よりも子どもたちが主人公になったりして、真宗同朋会の人たちも、びっくりしたり喜んだりしておられたのだった。

 同時に、それらの全てを冷静に見ておられた方があった。真宗同朋会の導師、藤井善こと伊奈教勝さんである(藤井善さんは1989(平成元)年7月、市川親鸞塾だよりで本名伊奈教勝を名告られた)。最後に、その伊奈教勝さんの言葉を引いてまとめの言葉としたい。

「その人間回復の橋を渡って、いま申しました玉光順正さんという方が来られたのです。この度、橋がかかっておめでとう、いままでは舟できたけども、今日は橋を渡ったのです。人間回復の橋、いい名前です。あなた達の人間が回復です。しかし、人間回復ということは、あなた達の人間を回復することはもちろんですが、そこへ閉じ込めていた、隔離した側の我々の人間も同時に回復するということです。あなた達がほんとうに人間回復されない以上、そこへ閉じ込めた側の人間も、実は回復されないのです。そういうことをいわれたのです。その時、私はひらめいたのです。世を捨てた私、かかわりのない外、それが実はそうでなくて、私という人間がここにいるということは、私だけの人間でなくて、私にかかわりのある多くの人々と関係のある私であるということが、その言葉で本音としてわかったのです。」(『ハンセン病・隔絶四十年─人間解放へのメッセージ─』伊奈教勝

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2023年1月号より