真宗同朋会運動研究班報告
‟一人称”で語るということ
─大阪・浪速地区フィールドワークを通して─
(名和 達宣 教学研究所所員)
はじめに
教学研究所ではこれまで、時代ごとの課題と向き合いながら、さまざまな方法でフィールドワーク(実地調査・探索)を実施し、この「教研だより」欄や『教化研究』で報告をおこなってきた。いずれも「教学研究所条例」第一条に示される「現代社会に応える教化の推進」を目的とするものにほかならない。
二〇二四年十月二十二日、教学研究所の職員十一名、解放運動推進本部の職員三名の計十四名で、大阪・浪速地区のフィールドワークをおこなった。それは、当研究所の今後の研究課題として掲げている「宗教と人権」を見据えたものであるとともに、フィールドワークの方法自体の探究を目的とするものである。以下、その一端を報告する。
浪速地区歴史展示室
京都から電車に乗っておよそ一時間、JR芦原橋駅のガード下に目的地はあった。
──浪速地区歴史展示室。
そこを管理されているのは、部落解放同盟浪速地区元支部長の浅居明彦氏である。この芦原橋駅南側に位置する地域は、江戸時代は「渡辺村」、近代以降は「西浜」と称されながら、長く皮革・太鼓産業をいとなむ被差別部落地域として歴史を刻んできた。その歴史と問題、ならびに宗教(真宗)との関わりは、論集「シリーズ宗教と差別」第三巻の『差別の地域史──渡辺村からみた日本社会』(法藏館、二〇二三年)に詳しい。浅居氏は、その監修者の一人である。
浪速地区歴史展示室では、差別の歴史や問題だけでなく、この地でいとなまれてきた産業・生活・教育など、いくつかの視点から部落差別の実態とそれを補完する社会の仕組みが「見える」様にと、工夫をこらした展示がなされている。
現地に着き、挨拶が終わるとすぐに、二階の展示室へ案内された。そして浅居氏より、渡辺村の移転や皮革産業の歴史にまつわる史料、古い太鼓の実物等を前に、自身の経験を踏まえた懇ろな講義をしていただいた。
旧・渡辺村探索
展示室での講義ならびに見学の後、外に出て、浅居氏先導のもと、旧・渡辺村の「人権・太鼓ロード」と呼ばれる場所(新なにわ筋周辺)を中心に、探索をおこなった。
かつてこの地域は全国随一の‟太鼓の町”であったが、現在ではその産業をいとなむ家の数は激減し、また近年は外国からの移住者、つまりこの地の歴史や文化を知らない人々の割合が増えてきているという。
道中に聞いた中で、特に興味深かったのは、獣骨をめぐる話である。江戸中期、薩摩藩(現・鹿児島)の豪商・仲覚兵衛が渡辺村に着いた時、獣骨が肥料として効果があることを知り、同村の岸部屋六兵衛の手助けによって持ち帰ったというもの。それによって、シラス台地のために作物が育ちにくかった薩摩藩の農業が発展していったという。一人の人間との出会いから、国(行政)や文化の壁を越えた交流が実現し、産業の発展につながったという物語に、新鮮な驚きと感動をおぼえた。
また浅居氏は、途中で突然、広い更地の前で立ち止まられた。二〇二〇年五月末に閉館となってしまった「リバティおおさか」(大阪人権博物館)の跡地である。そこで閉館にまつわる話や、跡地前の歩道に並ぶ和太鼓のモニュメントに、沖縄・韓国の伝統打楽器のモニュメントが加えられるに至った経緯等を聞き、「丁寧に仕事をするとは?」「何をもって対話というのか?」といった問いが惹起した。芦原橋駅周辺には、今も「リバティおおさか」を指し示す看板が多く残っている。
おわりに――フィールドワークを終えて
このたびのフィールドワークにおいて、ことに印象深かったのは、浅居氏が自身の生まれ育った地のことを語られる際、江戸時代の出来事も、痛ましい差別の実態も、偉大なる皮革・太鼓産業の実績も、すべて他人事ではなく「私」「うち」と一人称で語られていたことである。まさに自己の身を通して歴史と向き合う姿であると感服した。
旧・渡辺村の探索では、アスファルトで舗装された道を歩く中、最初は展示室の写真に映っていた光景からあまりに様変わりした街並みに若干の動揺もおぼえたが、浅居氏の話を聞きながら歩いていくうちに、不思議と、足下に流れる深い歴史が感じられるようになっていった。報告者の頭の中でしきりに思い起こされていたのは、司馬遼太郎の『街道をゆく』である。
また、探索後、展示室に戻ってからの質疑で、「なぜ今、あえて部落差別の歴史を学ぶのか」という問いが投げかけられた時、浅居氏が「知らないことも罪」という返答に続けて発された言葉が記憶に刻まれている。曰く「差別が歴史的過去形となるのが夢」と。
方法(道)の探究はこれからも続く。
(教学研究所所員・名和達宣)
([教研だより(222)]『真宗』2025年1月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています