またせんじゃくしょうみょうがん」と名づくべきなり
                    (「行巻」『真宗聖典 第二版』一六九頁)
(教学研究所助手・中村玲太)

 親鸞聖人『教行信証』「行巻」の中心課題が、「選択本願」である。「行巻」を読む指針として示される、いわゆる標挙の文にも「選択本願の行」とある。
 
 この「選択本願」という言葉をもたらしたのは法然上人である。法然上人は、「ただ念仏」の道を仏教者として選んだ──選び直した。そして、その選びは個人にとどまらず、念仏、浄土が「宗」(釈尊一代の教えを見通す根本的な立脚地)として万人に開かれることとなった。ただ、往生浄土の道は念仏であると「選択」したのは、法蔵菩薩であり、自らに根拠を置くのではなく、法蔵菩薩の選択として念仏を仰ぐところに「選択本願念仏」という法然思想の核心がある。
 
 法蔵菩薩の選択であることは確かな事実であるが、安冨信哉氏は、「対象的選択とは、実は自己選択に他ならない。いま源空の「選択」思想は、末世の凡夫という認識に立って、個々の人間に仏教者としての在り方を迫ったといえる」(『新訂増補 親鸞と危機意識──新しき主体の誕生』文栄堂書店、二〇〇五年、一三一頁)と指摘する。これに関して、法然上人のよく知られた、「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん様に過ぐべし」という法語がある。この言葉は続けて、出家や在家などの様々な在り方を肯定するものであり、念仏の道を何か一つの立場に制限しない選択思想の広さを表すものと言えよう。しかしそれは、どのような人生を歩もうとも、念仏のある環境を選べ、という厳粛さに支えられた広さである。
 
 選びを問うことなくただ流れていく人生にあって、自らは何を指針として何を選ぼうとしているのか、こう問われているとも言える。しかし、すべてのことに理由を問い、選択を吟味していては、とても生きてはいけないと感じてしまう。一つ一つの選択肢には、無数の歴史的、社会的背景が存在するが、それを意識し、受け入れて生活しているわけではないであろう。一々の選択を吟味して生きてはいない人間にとって、自らの選択を自覚することは、日常の延長にあることではない。自らの「選び」について真に知ることは、日常を超え、自らを歴史の中に見出していくことに等しいのである。
 
 念仏が私たちに成立するということも、また歴史の中にある。親鸞聖人は、この身に届いた念仏を「諸仏称名」と呼ぶ。名号が諸仏によって称えられた歴史、さらにそれを展開した七高僧によって、はじめて「ただ念仏」がこの身に成り立つのである。このような歴史を展開する願いこそ阿弥陀仏の第十七願なのであり、これを「行巻」で、「諸仏称名の願」と呼ばれる。その上でまた、「選択称名の願」とも名づくべきなのだとする。
 
 この名づけについて、確かに、親鸞聖人独自に、第十八願だけではなく、第十七願をも「選択本願」だと明らかにしたという見方は重要である。ただ、それだけではなく、「選択」の名づけとは、自身に称名が成立する最も具体的な歴史として、法然上人の営為を確かめているのではないだろうか。すなわち、歴史の中に念仏が、自己が見出されているのである


(『真宗』2025年2月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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