こうみょうみょうあんするにちなり
                    (「総序」『真宗聖典 第二版』一五九頁)
(教学研究所助手・谷口愛沙)

 この文は、『教行信証』「総序」冒頭の一文である。ここで述べられる「恵日」の語は、『教行信証』全体をみても「総序」だけに用いられている。また、親鸞聖人直筆の坂東本『教行信証』の「総序」部分は破損が著しく、文字の欠落箇所が多いなか、この「恵日」の文字は、われわれの目に触れうる奇跡的ともいうべきかたちで遺されている。親鸞聖人は、智慧の「慧」ではなく、「惠」(恵)の字をこの一文に当てられた。このことは、われわれに何を伝えようとしているのだろうか。この一文を書かれた聖人のこころに思いを巡らせ、一人における「立教開宗」──いま立つところの足もと──を尋ねていこう。
 
 「無碍の光明は、無明の闇を破する恵日」を現代語にすれば、「何ものにも碍げられない光明は、無明の闇を破る恵みの太陽」となる。「無明の闇を破る」ということを理解するのは容易ではない。だが、「恵みの太陽」については、想像することができるだろう。われわれの頭上で常に光を放ち、その光を絶え間なく、どこへでも、等しく向けているのが太陽である。
 
 この一文を拝読するとき、具体的なイメージが頭に描き出される。ただ描き出されるだけではなく、触覚や嗅覚という感覚が反応して、まるで熱を感じ、匂いがしてくるようだ。ここに、親鸞聖人が「恵日」という語をもって伝えようとされた大切なことがみえてくる。ここでは、具体的に「恵日」が立ち現れ、われわれは感覚によって、それにかかわることができるだろう。つまりこれは、そういうあり方で読まれることが求められている一文ではないだろうか。
 
 鈴木大拙師は、宗教を語るときに「霊性」という概念を用いる。人間にとって霊性とは目覚めるものである。人間が霊性に目覚めるのは大地と交わるときであり、それを「大地性」として説明する。


 
足が大地にいて居て、而して其大地は亦自分の手を何とかして又いくらか加へられ得るものであるが故に、それを通して天日が感ぜられる。
(『日本的霊性』一九四四年初版発行、『鈴木大拙全集〔増補新版〕』第八巻、岩波書店、一九九九年、四七頁)

 

 師によれば、天日は遠く、われわれは直にそれに接することができない。けれども、われわれには大地を耕し、そこで実るものを得て生かされているという日々の営みがある。そこで得られる実りは、天日の恵みである。この恵みとは、われわれが生活する、まさにこの場で実際に感じられ、触れることができるものなのである。
 
 親鸞聖人が「恵日」という語を用いた意は、いまを生きているこの世界で、実際にわれわれが接しうるものにたとえて、伝えてくださったということではないか。そしてそれは、まさに親鸞聖人ご自身が、実感をもって確かめておられた恵みであったにちがいない。


(『真宗』2025年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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