石川県小松市粟津町の温泉街の中ほど、老舗旅館の角を折れて小路に入ると「乾山本廣寺」の寺標が目に入ります。階段を上り、境内に入ると数日前の雪が少し残っていました。住職の藤伊滋さんに話をうかがいました。

本廣寺の由緒


住職の藤伊滋さん

本廣寺の由緒となった本光坊了顕(本光坊、本廣坊、本向坊とも称される。以下、本廣坊)は文明6(1474)年3月28日に命終されています。この日、蓮如上人のおられた吉崎御坊で大火事がありました。その火中に親鸞聖人直筆の教行信証の証巻が取り残されていることを知り、上人が呆然としていたところ、弟子の一人だった本廣坊が「自分が取ってきます」と言い残し、水を被って炎上する御坊の中へ入ったのです。そして自らの腹を割いてお聖教を納め、炎から守ったとされています。

本廣坊舎はその後も吉崎にあって吉崎への巡拝者を迎えていましたが、木場村の藤田の一族が吉崎の本廣坊舎を継いだ折、再度の火災で本廣坊は消失。なんとか九間御堂のお堂を建て直したそうですが、今度は借金で首が回らなくなり、一族は木場の実家に帰って来たとのこと。すると当時の法師旅館(石川県小松市粟津温泉にある1300年の歴史を持つ老舗旅館)、法師善五郎が本廣坊から出た家族を粟津の寺へ呼び寄せてくださり、寛政7(1795)年、粟津村で再興。「本廣坊」と号したそうです。嘉永3(1850)年、粟津乾山に復し、そして明治12(1879)年、本廣寺となりました。

地震で被害に遭った民家から救い出されたひな人形


その本廣寺の御堂には、現在、立派なひな人形が保管してあります。このひな人形は高さ1.8m、幅1.2mの七段飾りで、能登半島地震で全壊した輪島市深見町の民家で50年以上前から引き継がれてきたもの。公費解体が進む中、多くの家財や思い出の品の、歴史的な遺物を保管する場所がなく、復興のためとはいえ、それら大切なものが毎日失われていっているのが現状です。二次避難を通じてご縁のあった本廣寺の住職が行き場のないこのひな人形のことを知り、捨てるに忍びない大切なこのひな人形を状況が落ち着くまで御自坊で保管することを提案されたそうです。公費解体される民家から救い出されたひな人形は、こうして本廣寺にやってきました。人形を受け取った後、ご住職は代わりに被災地支援に役立ててほしいと温泉卵や野菜などを輪島のNPOに託しました。

粟津温泉の旅館や店舗などでは例年3月初旬から約一ヶ月、「粟津お雛様巡り」を開き、各所にひな人形を展示しています。それらのひな人形をウォーキングしながら見て回れるという取り組みです。本廣寺もこのコースに入っており、期間中はこのひな人形を拝見できるようにしています。藤伊住職は「救出されたひな人形をできる限り預かり、大切に飾っていきたい」と話されました。

火中からお聖教を救った本廣坊と震災に遭い行き場のなくなっていたひな人形を保管する藤伊住職。大切なものを守り、つなげていく。ご住職と互いに後継者に悩む現実を話しながら、自坊を守り、どうつなげていくのか、何を大切に守っていかなければならないのか、いろいろと考えさせられました。

(小松大聖寺教区通信員 中谷 寧)