悲しきかな、愚禿鸞
(「信巻」『真宗聖典 第二版』二八五頁)
(教学研究所所員・名和達宣)
今から十余年前、ある研究会の場で、キリスト者の批評家・若松英輔氏から「何百年も前に亡くなられた親鸞という人を、生々しく感じる時はありますか」と問われた。その時、すぐさま脳裏に浮かんだのは、『教行信証』「信巻」の「悲歎述懐」と呼ばれる言葉である。
ここで親鸞聖人は、「愚禿」の名のりのもと、底なしの愛欲に沈没し、名利に迷惑うがゆえに、必ず仏になるべき身(正定聚)と定まったことを喜ぶことができず、真のさとり(証)に近づいていくことを快く思えないと、悲しみ歎いている。
これは、他力の信心によって大涅槃に至る道が開かれた「真仏弟子」と、それに対する「仮」「偽」なるあり方が確かめられた直後に表出した言葉である。「信巻」では、その前の「三心一心問答」と呼ばれる箇所で、はかり知れない過去より今日に至るまで沈迷し続ける一切の苦悩の存在(一切群生海)と、それを悲しみ憐れんで大悲の願を発された阿弥陀如来との対応関係が繰り返し尋ねられている。
このことに照らせば、「悲歎述懐」における情感としての悲しみは、救われがたき自己にはたらく如来の大悲の感得と表裏一体であると言えるだろう。「真」たりえない、どこまでも願いに背き続ける愚かな自身に、仏弟子としての道が開かれた。その不可思議なる事実に対しての感嘆である。ゆえに古来、この悲しみの裏には喜びがあるとされ、「悲喜交流」(『六要鈔』)を表すとも言われてきた。そして私は「悲しみ/喜び」の表白においてこそ、親鸞聖人の存在をリアルに、生々しく感じるのである。
実は、若松氏と初めて会った時にも、この言葉を紹介し、この言葉をとおして共通の地平に立つことができた。東日本大震災の翌年、インタビューの仕事で訪ねたのだが、開口一番、「震災以降、宗教者は何をしてきたのですか。物資を運ぶことももちろん大事ですが、それだけでなくコトバを運ばなくてはいけないのではないですか」と厳しく問われた。
その後もぴりぴりと張りつめた時間が続いたが、若松氏が「悲愛」という視座をめぐり「本当の愛は悲しみに支えられている」などと語られた時、かの言葉が想起された。そして「親鸞聖人も近いことを言われています」と述べつつ「悲歎述懐」の言葉を読みあげると、態度と場の空気が一変した。「やはり親鸞はすごいかたですね、これは真実です」と。宗祖の言葉、ひいてはコトバの偉大さが深く思い知らされた出来事であった。
境遇や立場、さまざまな思いや価値観のちがいを越えた、根源的なつながり(連蔕)を開くのは、まさしく「悲」である。
(『真宗』2025年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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