法語に込めた思い

 「呼ぶ」は自分が声を出すこと。「喚ぶ」は、法要が始まることを知らせる喚鐘のような、阿弥陀仏からの換びかけ(招喚)です。私たちが南無阿弥陀仏と称える声は、同時に、阿弥陀仏が私たちに換びかけておられることを表しています。そのことを皆さんに考えていただけたらと思い、甲斐和里子さんの言葉を参考にしました

掲示板に込めた思い

 雪が降る中、榮恩寺に取材に伺った。榮恩寺の掲示板は、道に面する鐘楼門にある。蓮如上人五百回御遠忌法要にあわせた本堂の改修の際、寺の世話人の方が製作され、それ以来、月に一度は掲示板に載せる言葉を更新するようにしているそうだ。
 住職は、「掲示板には、あまり難しすぎず、興味を持ってもらえるきっかけになるものを選ぶよう心掛けている。詩集や絵本からの言葉を紹介することもあり、印刷されたものではなく、親しみをもってもらえるように自分で手書きすることも多い」と語られた。
 境内には樹齢四百年の枝垂桜があり、地域でも有名だ。
「春になれば満開の桜を見に訪れる方がいるが、寺に足を運んでもらえるきっかけとしては掲示板も同じ役割を持っていると思っている」と住職は語る。時々門徒の方や観光客が立ち止まって掲示板を眺めているそうだ。
 現代はインターネットで何も考えずとも答えが出てしまう時代だが、ふっと掲示された言葉を見て「何だろう?」と疑問を持つことこそ、掲示板の意義ではないだろうか。
 春には満開の枝垂桜が咲くことだろう。またお寺を訪れたい。

(新潟教区通信員 二所宮 岳)


『同朋新聞』2025年4月号「お寺の掲示板」より

ご紹介したお寺:新潟教区 高田13組 榮恩寺(住職 宮本 亮二)

※役職等は『同朋新聞』掲載時のまま記載しています。