智慧・慈悲のはたらきそのものが「仏」なのです

法語の出典:坂東性純

本文著者:大江憲成(九州大谷短期大学名誉学長・日豊教区觀定寺住職)


「仏さま……」。


私たちは一人居て、だれ言うとなくつぶやいています。おのずと頭が下がってまいります……。


まことに悠久の歴史の中で、「仏さま」ということばは人間の思いに先立って、ずっとはたらき続けてまいりました。仏さまはことばとなって、人間の思いを超えて、はたらきかけてくださっていたのです。人はそこに言いしれぬ安らぎを感じてまいりました。仏さまということばに言い尽くせない信頼を感じていたからであります。


仏さまは人間の不信一杯の心にはたらきかけ、かたくなさをやぶり、信頼の領域を(ひら)いてくださっています。そこに、人は限りない「まこと」(智慧)に気づき、奥深い「いつくしみ」(慈悲)を感じ取るのであります。


おそらく、気づき感じ取るものを、ずっと無意識の奥底に抱いていたからでありましょう。ふとしたことで気づかされるのです。


「あっ、あなたは私が思う以上にずっと私のことを考えてくださっていたのですね」。


このように確かな智慧と見捨てぬ慈悲を人生のただ中に感じる時、人は、いかなる境遇であれ、いかにつまずいてきた道のりであれ、人生に絶望しないのであります。


「ああ、ここを生きていけばいいのだ。いかようであれこの私から再度歩みを始めよう」。


呼びかけの中に歩みが始まります。


仏さまのおことばは、彼方からの喚び声であり、限りなく深く広い世界からの呼びかけであります。そのために、このちっぽけな私の頭には入ってまいりません。むしろ、こちら側から推し量ってわかるというよりも、呼びかけられてはじめて気づかされてくるものであります。


人のことばをとおしてであれ、風に揺らぐこずえのささやきにであれ、いまだかつてない声を聞くのであります。


まことなるもの、リアルなるものは彼方からの呼びかけの中に知らされてまいります。


「あっ、この私が呼びかけられている」。


これは孤独なる私にとってはまさに感動であり、かつてないリアルな経験であります。では、呼び声に出遇う時、み声の奥にあるお心は一体いかなるお心なのでしょうか。


『仏説観無量寿経』でお釈迦さまは、「仏心というは大慈悲これなり」(真宗聖典106頁・第2版115頁)とご説法くださっています。振り返ってみますと、私たちは何かを探し続けてずっと今日まで生きてきました。一体何を探してきたのでしょうか。わからないのです。


ところが仏法をいただいてまいりますと、久遠の昔から探し求めていたのは、実は仏さまのお心であり、さらに言えば仏さまの大慈悲であったことが知らされてくるのです。いかなる境遇に生きる者であれ、いかなる振る舞いの者であれ、見捨てず平等に受けとめて、生きるべき道のあることを指し示してくださっているお心であります。


そのお心こそが、私たちがかねてより探し求めてきたもの、智慧と慈悲のはたらきそのもの、つまり仏さまなのです。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【12月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

東本願寺出版の書籍はこちらから

東本願寺225_50