けんにんかのととりれきぞうぎょうててほんがん
                    (「後序」『真宗聖典 第二版』四七四頁)
(教学研究所所員・難波教行)

 真宗の学びを始めてしばらく経った頃から、私自身に劇的な翻りの体験が起こっていないことに後ろめたさを感じるようになった。私は、親鸞聖人のように教えに出会えていないのではないか、と。
 
 『教行信証』のいわゆる「後序」には、親鸞聖人が自らに起こった出来事に言及した数少ない言葉がならび、本書撰述の事由が述べられていると言われる。その中で聖人は、法然上人と出会った二十九歳時の年号「建仁辛の酉の暦」(一二〇一年)を明記し、「雑行を棄てて本願に帰す」という言葉で、その出会いの意味を確かめている。聖人にとって法然上人との出会いは、仏の本願を依り処とする者となる生き方への転換点であった。そして私は、転換の日を境に救われた聖人をイメージするたび、聖人と自分との乖離を感じていたのである。
 
 ところがあるとき、この一文に日付が記されていないことに気がついた。「後序」ではその後、『選択集』書写と真影の図画について述べられ、法然上人に内題や銘文を書き入れてもらった具体的な年月日が記されている。にもかかわらず、「雑行を棄てて本願に帰す」という体験については、年号が示されているだけなのである。
 
 思えば、『恵信尼消息』に描かれる親鸞聖人と法然上人の出会いもまた、「山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて……法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに……」(『真宗聖典 第二版』七五四~七五五頁)と百日の参籠・百日の聞法とともに示され、一日の出来事として物語られてはいなかった。「雑行を棄てて本願に帰す」とは、聖人にとって、年号を示すことはできても、特定の一日に起こった体験として確かめるべきものではなかったのではないか。ある日突然に劇的な翻りが訪れ、それによってすべての問題が解決するなどと、ぼんやり期待していた私は、どうやら考えを改めなければならないようだった。
 
 親鸞聖人にとってその体験は、一日に限ったことでも、問題の解決でもなかった。「本願に帰す」、すなわち本願を依り処として生きるとは、その直前に「雑行を棄てて」とあるように、自らをたのみとする在り方の問題を教えられることでもある。
 
 考えてみれば、「建仁辛の酉の暦」に先立って名のられる「愚禿釈の鸞」は、聖人が法然上人と出会ったときの名ではない。聖人は、吉水の地で「綽空」の名を与えられ、後に「親鸞」そして「愚禿釈親鸞」と名のったのである。
 
 それでも聖人は、「愚禿釈の鸞」の名のりにおいて、二十九歳の出来事を『教行信証』を締めくくるにあたり記した。それは、聖人が生涯にわたって自らの問題を教えられ、自らの生き方を確かめ続けたからにちがいない。
 
 八百余年の時を越えて今、標題の言葉は、劇的な体験でもって救われようとする在り方をあぶりだし、「何を依り処とし、何を教えられて生きているか」と私一人に問いかける。そして、問いとしてあらわれる『教行信証』の言葉を通して、私たちは宗祖親鸞聖人に出会えるのである。


(『真宗』2025年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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