「いただきます」は宗教と関係があるの?
真城義麿(四国教区善照寺住職・元大谷中・高等学校長)
さて、「いただきます」は、誰が何をいただくのでしょうか。私のいのちの存続のために、他の「いのち」をいただくのですね。食事は生命の受け渡しの営みです。目の前の料理の食材となった「いのち」に向かって「申し訳ありませんが、私が生きていくために、あなたのいのちを頂戴し、今後はあなたのいのちとともに生きていきます」ということでしょう。摂取した「いのち」は、私のいのちと不可分に一体化します。私たちはこれまでいただいてきたたくさんの「いのち」とともに生きているのです。ですから、いただいた「いのち」への責任があります。
そういうことからいえば、「いただきます」の習慣は、特定の宗教・宗派の作法ということではありませんが、いのちに対する尊重や畏敬という意味で宗教的行為といえるでしょう。本来はわたしのいのちの維持のために生まれてきたわけでもない動植物を、生きることを中断させて、いただいたわけです。尊いいのちを中断させて「ごめんなさい」という謝罪でもあり、食材となってくださって「ありがとう」という感謝の表明でもあります。
そういうところに立ってみると、いのちである食材を粗末に扱ったり、無駄に捨てたりすることになったら、「いのち」に失礼ですね。不必要にたくさんの食材を用意して結局は無駄にしたり、食べ散らかしたりすることは慎まねばなりません。地球上には、栄養失調や飢餓で亡くなる多くの方がいます。その無駄に捨てられた「いのち」は、有効に届けば誰かのいのちを支えることになったはずなのです。
食前には、いただく「いのち」に「いただきます」と言い、食後には、その「いのち」をいただいたことへの心からの痛みと感謝を表すとともに、その食事を用意してくださった方々に対して「ご馳走さま」(馬で走り足で走って用意してくださり、ありがとうございます)と御礼を言うのです。食事をとおして、「いのち」について考えたり話し合ったりしていただきたいものです。
『仏教なるほど相談室』(東本願寺出版)より
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2021年版①)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2021年版)をそのまま記載しています。
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