事毎に信有るべし
(松下 俊英 教学研究所研究員)
数カ月前、代々魚屋を営んでおられたご門徒の方が示寂された。
魚の目利きに大変すぐれており、どの品も絶品であったが、残念なことに諸事情により十数年前にお店を閉じられた。閉店後は、清掃などの様々な仕事で、ご伴侶とともに慎ましい生活を送りながら、町内会のことや寺社の世話人などを積極的に担っておられた。温厚な性格で飄々としており、あらゆることに興味をもって知性を養うような方だった。だからと言って、教養を自慢することもなく、どこまでも謙虚であった。
数年前、その方とともに東本願寺へおもむき、そこで帰敬式を受けていただいた。式が終わるとすぐに、私のところへ来られ、法名をいただかれたことを心から喜ばれ、その感激を感謝とともに伝えてくださった。ちょうど夏の訪れを告げる合歓の花が咲き誇る時節だった。
その帰り道に、次のように語られた。
「自分はこれまで魚屋を営んできたが、もし生まれ変わることがあるのなら、もう魚屋はしないと仲間内と話し合ったことがあった。朝が早く、夜も遅くまで仕事が残り、仕入れに予想がつかないこともあって非常に骨の折れる生業だからだ」と。
これまで愚痴の一つも聞いたことがない方の、唯一の苦労話である。だからこそ、その話には深さと重みがある。ひるがえって、ただただ自身の好みで良し悪しを評して、絶品だけに舌鼓を打つ私は、その「当たり前」の食卓の背景にどれほどの方々のご苦労があるのか、ということを忽然と突きつけられた思いだった。
聖徳太子の言葉と伝わる『十七条憲法』には「信は是れ義の本なり。事毎に信有るべし」(聖典第二版一一五七頁〔初版964〕)とある。「信」は「まこと」と読み、それが「義」、つまり「ことわり」の根本だという。そして続けて、「いつも(事毎に)、まことでありなさい」と語られている。それは「いつも誠実であれ」という呼びかけだということができる。
先のご門徒の話には「誠実であれ」と直接言い表されているわけではない。しかし私にとっては、太子の呼びかけのように聞こえるのである。
そして、そのように言われれば、そうありたいと思う。ところが、思えば思うほどに、反比例した自身のあり様が浮き彫りになっていく。なりたい自分を強くすればするほど、なれない自分との乖離の溝が深まっていく。しかし、あべこべだと歎くのは自分の思いであって、これが動かぬ現実なのである。傷ましいと思う。
いま、合歓の開花の季節が来た。その淡い美しさと軽やかさに対照して、私の身のあり様が照らし出されていく。今年はそのご門徒の初盆である。今年にとどまらず、合歓の花が開く事毎に、苦労話と太子の言葉を噛みしめることになるのだろう。
(『ともしび』2025年7月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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