「ことば」で閉じたこころを、解き放つ(織田 顕祐)

人には課題が二つある
 

 人には課題が二つあると思う。第一は「人に生まれて人間になる」ということであり、第二は「人間になって人間を超える」ということである。私たちは誰一人として「わたし」という自覚を持ってこの世に生まれてきたわけではない。ただいのちとして生まれ、様々なことを経験し、経験がことばと重なって意識となり、「わたしと世界」を認識するようになったのである。これは決して当たり前ではない。二十世紀の始めの頃、インドの奥地でいわゆる狼に育てられたとされた子が発見され、「アマラ」と「カマラ」と名づけられた。二人は、当初ほとんど狼のような習性であったが、シングという牧師夫人に丁寧に育てられた結果、次第に狼の習性は抜けて人間の生活に親しむようになり、ついにはことばを理解するまでになったと言うのである(J.A.L. シング著『狼に育てられた子』中野善達・清水知子訳、福村出版)。一方で、誕生したばかりの子犬を人が育てたとしても、成長して人間の習性を身につけ人間のような生活をすることはあり得ない。人は狼に育てられれば狼のようになる。これは人という存在の不思議である。
 

 ここに第一の「人に生まれて人間になる」という課題がある。どんな人も人と生まれて、他の人に育てられて初めて人間になるのである。これを「関係的存在」と言っても良いし、「社会的存在」と言っても良いと思う。人が人間になるためには関係が必要なのである。つまり人は育てられて社会的な「個人」となり、その個々の人間が社会を支えるという関係である。これを仏教語で「そうそうたい」と言う。ここで「個人」と言っているのは、いわゆる「わたし」のことで、この世界に自立して存在していると考えている私たち自身のことである。この「わたし」は、仏から見れば常に大きな勘違いを伴っている。それは、世界の真ん中に「わたし」という確固たる自明の存在があると意識し、常に自分中心に物事を考えていることである。これを仏教語で「我執がしゅう」と言うが、この「わたし」を自明とする限り、人間は他を排除して自分を通そうとする排他的な行動を免れることができないのではないか。そして社会が個人の総体であれば、その総体としての社会は当然のことながら排他的にならざるを得ない。「仲間意識が仲間外れを作り出す」わけである。ここに第二の「人間になって人間を超える」という課題があると思う。
 

「ことば」をめぐって
 

 上に述べた「社会的な個人」とは、現にそのような存在としてこの私が実存することである。一体、その根底には何があるのだろうか。やや飛躍するようであるが、それは「いのち」と「ことば」ではないかと思う。世親はこの世の一切の物事を第八アーラヤ識の活動として解明する。そこでは、あらゆる物事の原因を「種子しゅうじ」と言うが、その種子には身体の原因である業種子と認識活動の原因である名言みょうごん種子があり、両者の間に我執のじっがあると言う。つまり世親によれば、人間とは身体と言語を直接の原因とし、我執に条件づけられたものということになるであろう。この世親の人間観から見れば、「ことばとは何か」ということは人間の根本的な課題の一つであると言える。
 

 このように、「ことば」は人間存在の根本的な問題であるが、それだけでなく私たちが聖典を拝読する際にも大きな問題をはらんでいる。私は、漢文文献によって教えを探求するものであるが、その場合に書かれた文字が同じでも意味内容は大いに異なるということが常にある。例えば、「浄土」という言葉は、わが宗門のいのちの言葉であるが、それが最初に使われたのはおそらく五世紀のはじめ、鳩摩羅什の頃である。鳩摩羅什訳『維摩経』で宝積という仏弟子が「菩薩の浄土の行」を説いて欲しいと要請したのが原初の用例であろう。この『維摩経』における意味と、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』という典籍によって表そうとする「浄土」の意味は随分異なる。言葉が同じだからといって、両者を相互代入的に理解すればとんでもない間違いを起こすことになる。例えば、「クルマ」だからと言って、平安時代の牛車と現代の自動車を一緒にするようなものである。つまり「テキストを読む」ことには充分な慎重さが必要なのである。かつて金子大榮師が「言葉の解釈でなく学び方を学ぶ」(『真宗学序説』取意)と提唱されたのはこの意味であろう。『維摩経』と親鸞聖人の間にある課題は、そのまま親鸞聖人と私たちの間にも存在するのである。親鸞聖人の言葉を説明するのではなく、私たちがそれを受け止めた上で自分の言葉で語る。この「ことば」をめぐる未消化が今私たちに問われている。
 

教化と教学(能所の転換)
 

 現在の教学研究所は、六十数年前の一九五八年七月に組織された。それ以前は教化研究所と称していたのである。教化研究所から教学研究所へと転換した主旨が『真宗』一九五八年八月号に「教学研究所とその仕事」と題して述べられている。その要旨を抜き出せばおよそ以下の通りである。
 

・ 教化という言葉で考えられやすいことは、始めから教えというものがあってそれを人々に伝えるということであるが、教えるということの前に学ぶという面を忘れがちである。
 

・ およそ人間が人を教えるということは出来ないことである。ただ教えに教えられること、それだけが私たちに出来ることである。
 

・ 現代社会に生きる人々の問題を自身の肉体にぶち当てて学び話す以外にない。
 

このような点が熱意を込めて述べられている。要するに僧分が門徒を教化するのではなく、自分自身がまずわが身を通して教えに教えられ、それを自らの言葉で語ることが教化の本質であり、そのために教えを学ぶのが教学であると確かめられている。
 

 現在宗門では「○○教化」という名をもつ各種委員会などが組織されているが、果たしてこのような願いを実現する歩みとなっているであろうか。もし、「始めから教えというものがあってそれを人々に伝えること」が教化であるとする傾向があるのであれば、これを改めていかねばならないであろう。如来が凡夫を教化するという事態においては、門徒も僧分もない。ただ教化されるものとしての凡夫衆生が存在するだけである。同朋社会の顕現とはそうした事態を言うものであろう。だとすれば凡夫の中に教化するものと教化されるものが存在するような事態は非本来的である。衆生はすべて如来によって教化されるものである。「教化」は人が人を教化するのでないとしながら、いつの間にか僧分が門徒を「教化する」という常識になっているとすれば、「教化するもの」から「教化されるもの」への転換が必要である。これを佐々木月樵師が「能所の転換」と呼んだことを金子大榮師が伝えている(大谷大学編・発行『大谷大学樹立の精神』所収「佐々木月樵師追憶」)。この言葉は、簡潔で正確な表現なので、今後の私たちを方向づける言葉として提唱したい。
 

人間の諸問題を仏教・真宗で考える
 

 現代は、憎悪や非寛容などに基づく他者の排除、ネット中に溢れるフェイクニュース、恐怖の煽動、果てしない欲望の追求などの諸問題が渦巻く社会である。これら社会的な問題の根底に一人ひとりの人間の根本的な性向があるはずである。社会的人間の成立には「ことば」が深く関係していた。ある言語の話者となること、例えば、日本語の話者となることは日本語を介して個人と社会が相依相待の関係にあるということである。言葉によって内に閉じた個人であるから、「ことば」によって解放されるということも成り立つのであろう。大乗『涅槃経』には二種の言葉があって、人を流転に結びつける凡夫の言葉と、流転の凡夫を浄化する如来の言葉があると説かれている。ここに私たちの歩むべき道が示されているのではなかろうか。世間と仏法の間を通訳して、「仏法を世間化する」のではなくて「世間を仏法化する」こと、これが私たちの課題である。
 

([教研だより(228)]『真宗』2025年7月号より)