教学研究所長コラム

教学研究所
所長

楠 信生
Kusunoki Shinsho

彼の国に生まれんと願え

現代の危機

去る四月四日、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要お待ち受け記念講演会・シンポジウムが「人・人間・衆生──人と生まれたことの意味をたずねて──」というテーマで開催され、インターネット上でライブ配信された。基調講演は、京都大学名誉教授・前京都大学総長の山極寿一氏にお願いをした。山極氏からは、講演に当たって事前に次のようなメッセージをいただいた。

文明の転換点に立っている私たちは、新型コロナウイルスによって新たな生き方を考える必要に迫られている。それを人類の進化史と文明史を振り返り、現代の科学技術の効用を見据えながら模索してみようと思う。

山極氏はゴリラ研究の第一人者であるが、人文系の書も多く出版され、現代社会が抱える種々の問題に提言をしておられる。その著作の中で、

科学技術は未来の可能性を提示するものだけど、生きる意味というのは宗教が与えてくれる、そういう役割分担がずっとなされてきたと思うんです。(『人類の起源、宗教の誕生』平凡社、八十二頁)

と語られる。

生きる意味を宗教が与えてくれてきたと言われるが、現代の問題は、科学が宗教と手を組むことをやめて経済と手を組んだ。さらに宗教に代わるものを、人間は特にヨーロッパでヒューマニズムというかたちでつくり出したと山極氏は指摘される。

経済優位となって科学がけん引されるということは、いよいよ人間性の本質を見失うこととなり、極めて危うい方向に進むこととなる。また、ヨーロッパに起源をもつヒューマニズムは、中世封建社会や腐敗したキリスト教会からの人間の解放をめざし、独裁体制や戦争などへの批判精神としては意味のあるものである。しかしヒューマニズムが人本主義、人道主義、人間主義などと訳されるように、人間を超えた世界から人間を見つめることができるのかという点においては、十分なものとは言い難い。このような状況の中で、人間にとっての本質的な事柄に問いを投げきれていない宗教者の責任を痛感せしめられる。

さらに、山極氏は次のような重要なことを提起しておられる。

頼りになるのは、信頼できる人間関係に象徴される社会資本なのです。(『都市と野生の思考』集英社、五十一頁)

社会資本というのは、一般的には、いわゆるインフラ(正確には、インフラストラクチャー)のことで、水道・電気・鉄道などの産業基盤、学校・病院・公園・社会福祉施設などの生活関連の基本設備として理解されている。そのような意味で多く使われている社会資本という言葉を、「信頼できる人間関係」という視座で語っておられることが重要である。このような関係性は、現代の社会において失われつつある。科学が経済主導で進められることによって、人間の精神的インフラが失われているということであろう。その中にあって宗教者はどうであったのか。共に流されてしまっているのではないか。

 

本願の報土へうまれんとねがえ

「信頼できる人間関係」そのものは、多くの人が願いつつ、得られぬ世界である。また得たと思っても、人間の思いに依る限りは関係が壊れることもある。では「信頼できる人間関係」の成立は人間にとって理想ではあっても、容易に成り立たないのであろうか。

親鸞聖人は「信頼できる人間関係」を、法然上人との出会いによって目の当たりにされた。親鸞聖人にとって、法然上人とその周囲に「信頼できる人間関係」を見いだすことができた。けれども、一二〇七(建永二)年専修念仏停止の院宣がくだり、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となる承元の法難は、その場を奪うこととなったのである。もちろん、場を奪われても、出遇いの経験そのものは、奪うことも失われることもなかったのである。

『教行信証』「証巻」釈文証について、金子大榮先生の領解を拝見する。少々長くなるがここに引かせていただく。

人と生れた悲しみを知らないものは、人と生れた喜びを知らない。その悲しみに於て人間であることの愚かさを知り、この世を穢土として厭う。そこに自覚の限界がある。その喜びに於て如来の智慧を感じ、永遠の世を浄土として欣う。それは願心の回向である。いかなる事態の変化に於ても動かされない一境を思う。それは自在の境地である。心の欲するところを行うて規(き)を踰(こ)えないことを願う。それは真実の自由である。されど凡夫は煩悩具足であるから、自在の境地は得がたく、愚痴暗鈍の故に真実の自由となることができない。ここに自在を無上涅槃に期し、自由を還相利他に望むこととなるのである。然るに願力の回向に往・還二相あれば、自在・自由も念仏の身に与えられることであろうか。その一境は近くて遠く、遠くて近い。そこに信忍の喜びがあるのである。いかなる事態にも満足せぬ凡夫であると知ることを機縁として、畢竟寂滅を思う。ここに念仏する身には、煩悩を断たずに涅槃の内感される所以がある。何を為(な)しても可(よ)いということは、何を為(なさ)ぬでも可いということの上に立つ。そこに為して為さずという境地がある。それは願力を信ずる心の喜びである。(『口語訳教行信証附領解』法藏館、三三七~三三八頁、ルビは引用者)

悲しみと喜び、人間の愚かさと如来の智慧、穢土と浄土。これらの対峙は、私たちに二者択一を求めるものではない。如来の願心において、悲しみも人間の愚かさも、穢土を生きることも、それ以外の自分はないことを知らしめ、なおかつ求めるべきことを見失わせないという、関係が有らしめられることである。自在は無上涅槃にあり、自由は還相利他にある。そのことを明かすのが念仏の信である。私たちは「信頼できる人間関係」がなければ真の意味で生きたことにならない。しかし人間の知恵でその関係を築くことはできない。そこで「信頼できる人間関係」の心髄は、浄土に求められることとなるのであろう。そして願力の信に由(よ)れば、「為す」も「為さぬ」も宿縁ということなのである。

このことを親鸞聖人の言葉にたずねなおすならば『一念多念文意』に、

「願生彼国」というは、「願生」は、よろずの衆生、本願の報土へうまれんとねがえとなり。「彼国」は、かのくにという。安楽国をおしえたまえるなり。(『真宗聖典』五三五頁)

と説かれる。真実の世界は、本願酬報の土、阿弥陀仏の浄土である。その国に生まれようと願えと教えられるのである。

 

なんじが信心は

昨年の春から、新型コロナウイルス感染症のまん延で、世界中の人々が不安を感じ、悩み悲しんでいる。真宗寺院の活動もいろいろな制約の中にある。密集・密閉・密接の三密を避けることを注意されてきたが、変異株ウイルスの感染拡大で三密の一つだけでも危ういと言われている。そのため、聞法の場を開くことも不安視される。もっとも寂しいのは、種々の制約の中で真宗の仏事の根幹である報恩講が、座数を減らし、お斎を中止し、参詣者の椅子の数を調整しながら勤めなければならないことである。これが二年続く。

ただこの厳しい状況の中で問われてくることがある。それは人と人との関係性が大切と言ってきたその関係性の根底に「同一念仏して無別の道故」(『論註』、『真宗聖典』三二四頁)という共有があったのかである。「信頼できる人間関係」が念仏の教えによって開かれる世界観であってこそ、真宗門徒の場が開かれていると言えるのであろう。状況が厳しくなればなるほど、「なんじが信心は」と問われているのである。それに応えて「わが信心は」の内実をいかに伝えていくのか。

 

([教研だより(180)]『真宗』2021年7月号より)

【経歴】

1949年北海道帯広市生まれ。大谷大学文学部仏教学科(インド学)卒業。北海道教学研究所長、修練道場長、修練道場参事、教化伝道研修第2期研修長を歴任。2017年8月、真宗大谷派教学研究所長に就任。北海道教区幸福寺前住職。

【主な執筆】

著書

『僧侶31人のぽけっと法話集』(共著、東本願寺出版)
『いのちを考える連続講座―脳死・臓器移植をめぐって―』(北海道教区教化委員会)
『傍訳親鸞聖人著作全集第六巻 傍訳和讃・消息篇』(共訳、四季社)

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