法話1「念仏がもたらすもの」

「納得する、しないって。納得して生まれてきたわけではなかろうに」 親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、日々の生活とそこから紡ぎ出される人生全体を、南無阿弥陀仏の教えに立って受け止め生きた、ある真宗門徒の言葉です。ここに言い当てられているように、私たちは誰一人として納得して生まれてきているわけではありません。女であることも、男であることも、生まれる家も親も、場所も、時代も何も選ぶことなく、「そのまま」の存在としてこの世に生まれてきました。そこから成長していくなかで、色々なものを身につけ、「私」をつくり、その私の「思い」が叶うように歩んでいきます。つまり、納得できる人生を手に入れようとするのです。幸せのかたちは人それぞれだと言われますが、幸せであることと、私の抱えるさまざまな思いが叶うことは、ほぼ同義なのではないでしょうか。しかしながら、私たちは必ずその「思い」を打ち破るものに出あわなければなりません。自らの病、老い、愛する人との別れ。失業やさまざまな失敗。喪失の痛みは人生のあらゆる場面で私たちを襲います。努力でどうにかなるものであればいいのです。しかし、この「身」の問題は努力ではどうにもなりません。なぜか。それは、そもそも、この私自身が私の「思い」を超えて生まれてきているのですから。

思いを打ち破る喪失の痛みにどのように向き合い、受け止めていくのか。そのことを日々大切に問い尋ねる場こそ、お内仏(ご本尊の前)なのです。ご本尊に手を合わせることによって、喪失の痛みが無くなるのではありません。必ず訪れる、決して避けることのできない、喪失。その痛みを、「南無阿弥陀仏」と念仏申す一日一日において受け止めることによって、「そのまま」の人生全体を、かけがえのない一生としていただき続けることができるのです。

ご本尊をお迎えし、そこに手を合わせて「南無阿弥陀仏」と念仏申す。それが全てです。
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